Japanese Terror in China
English text
英日対訳 (in both English and Japanese)
「一九三七年、クリスマス・イブ 中国、南京にて
私がこれから述べることは、けっして楽しい話ではありません。事実、それはあまりにも不愉快なものなので、読む気のない人にはおすすめできないほどです。というのは、それは、ほとんど信じられないような犯罪と恐怖の物語、つまり、平和で親切で法律を守っている人々を止まるところなく自らの意志に従わせてきたし、現在も従わせつつある一集団の略奪物語なのです。しかし、それがわずか二、三人の人の目に触れるだけだとしても、私はこのことを語らなければならないと思っています。その話を語るまでは気が休まらないし、それに、おそらく幸いなことに、私はそれを語ることができるきわめて少数の者のひとりであるからです。これがすべてで� ��なく、全体のごく1部にすぎません。そしていつ止むことになるかは神のみが知ることです。私は早く止むよう祈っていますが、こんなことがここだけでなく中国の他の地方でも今後何カ月も続くのではないかと心配しています。これは現代史上類のないものである、と私は信じます。
今日はクリスマス・イブです。まず十二月十日のことからはじめたいと思います。ここわずか二週間で、われわれ南京在住者は包囲を経験しました。中国軍は敗北して撤退してしまい、それから日本軍がはいってきました。その日の南京は、まだ法と秩序が支配し、われわれがかぎりなく誇りとする美しいまちでした。今日の南京のまちは、荒廃し、破壊され、すっかり略奪され、大半が焼き払われてしまっています。一〇日間、完全な無政府状態が 支配しており、さながらこの世の地獄です。私の生命がずっと深刻な危険にさらされていたわけではありません。しかし、欲望に狂い、ときには酔っぱらった兵士たちを、彼らが婦女を強姦している家から追い出すことなどは、かならずしも安全な仕事とはいえません。胸に銃剣を突きつけられ、頭にピストルをつきつけられ、それもこれらの武器が邪魔者をしまつしたいと本気で思っているものの手中にあるのがわかっていると、おそらくそれほど身の安全は感じないでしょう。外国人全員が退去勧告を受けた後もわれわれがここにいるということを、日本軍はけっしてこころよく思っていません。彼らは目撃者をのぞまないのです。それにしても、極貧のものたちさえ、もっている最後の銅貨、最後の夜具類まではぎとられており、(� ��かも厳寒のおりです)、貧しい人力車夫が人力車をうばわれるという光景を傍観せざるをえないのです。その一方、多数の罪もない市民と共にわれわれの庇護を求めてやってきた大勢の武器を捨てた兵士たちが、射殺されたり、銃剣術の練習用につかわれるため、われわれの目の前で拉致され、しかも、彼らが射殺される銃声を耳にしなければならないのです。また大勢の婦人がわれわれの前にひざまずいて、ヒステリックに泣き叫び、彼女らをえじきにしようとねらっている獣どもから救ってくれるようわれわれに懇願するのです。国旗が引きおろされ、一度ならず何度も侮辱され、自分の家が略奪されているのを、何もしないでただ見ているだけという有様です。それから、愛着をもつようになったまちや、精魂をつくそうと考えてい� ��施設が、故意にかつ組織的に焼かれているのを見守っていなければならないのです。これこそ私がまさにかつて見たことのない生地獄なのです。
〝こんなことがいつまで続くのか″と、われわれは自らに問い続けてきました。来る日も来る日も、日本側官憲たちはわれわれに、事態は早急に好転するだろうとか〝われわれは最善を尽す″とかうけあってきましたが、かえって事態は日に日に悪くなっていくばかりでした。そして現在、新たに一個師団二万人が到着すると聞いています。彼らにも略奪・殺人・強姦という犠牲を払わなくてはならないのでしょうか。盗むものなど、もうほとんど残ってはいません。というのは、町はもうすっかりはぎとられてしまったからです。先週中は、兵士たちは商店から欲しいものをトラックに� ��み、建物に火をつけるのに多忙をきわめていました。そこで気がついてみると、二〇万の難民の三週間分の米と小麦粉、一〇日分の石炭があるだけと知って、胸もはりさけんばかりです。夜、心配のあまり冷や汗をかいて目をさまし、そのままずっと眠れないのも不思議なことではありますまい。たとえ三カ月分の食糧が十分あったとしても、そのあと難民たちはどのように食いつないでゆくでしょうか。家は焼かれ、いったいどこに住むのでしょうか。現在のひどい混雑状況では、これ以上どうにもなりません。もちこたえるとしても、じきに病気や悪疫が発生するにちがいありません。
私たちは毎日、日本大使館を訪れて、われわれの抗議、われわれの訴え、暴行と犯罪に関するわれわれの偽りない報告書を提出しました。その� ��度、私たちはものごしのやわらかい日本人的礼儀に接するのですが、実際には大使館員は無力なのです。勝利した軍は当然、報酬を受けねばならない。--その報酬というのも、略奪・殺人・強姦を意のままにすることであり、彼らが声を大にして保護し援助すると世界に公言してきたのに、その保護し援助をすることになった当の人たちに、信じられないような残虐かつ野蛮な行為を行なうことなのです。現代史上、南京における暴行ほど暗黒なページのないことは確かです。
過去一〇日間の出来事を全部述べようとすれば、長くなってしまいます。悲劇的なことに、真実が世界中に知られるときには、すでに熱が冷めてしまって、もはや〝ニュース″ではなくなっているでしょう。どちらにしても、すでに略奪され焼きはらわれた� �ちに日本軍は法と秩序をうちたてたとか、ふみにじられていた住民は両手をひろげ、歓迎の旗を振って、情け深い日本軍をうけ入れたとかと、日本軍が国外に公言していたことは疑いありません。しかし私は、この期間の若干の重要事件を記しておきたいと思います。私はそれらを小さな日記に書き留めておきました。というのは、それらの事件は、少なくとも私の幾人かの友人には関心がある事柄であろうし、私もこの不幸な日々を、永遠に記録することに満足を感じるからです。それはおそらく、この手紙の日付けより先まで続くでしょう。というのは、かなりの期間、この手紙を出せそうにもないと思うからです。日本側の検閲が目を光らせていることでしょう!不運なパネー号や美孚煤油公司の汽船や他の船舶に乗って、陥落直前 に南京をはなれた、わが国やほかの国の大使館員たちや実業家たちは、一週間以内には南京に帰れるものと信じていましたが、江上か、もしくはおそらくどこかの港でいまだに待たされています(日本軍の爆撃と機銃掃射による死傷をうけなかった人びとのことですが)。彼らが南京に帰るのを許可されるにはあと二週間はかかるだろうし、われわれのうちの誰かが南京を離れる許可をえるにはもっとかかるだろうと思います。われわれはここでは捕虜同然なのです。
私の前の手紙を読んだ方々は覚えておいででしょうが、わが南京安全区国際委員会は、中国および日本の双方に対し、南京市内に一定の地域を定めて、兵士や軍事機関をいっさいおかず、爆撃も砲盤もされることのない地域とし、南京市民一〇〇万のうち南京に留まって� ��る二〇万の住民が、事態が緊迫したとき、避難できる場所として承認を求めました。それというのも、中国軍が上海であれほど長い間見せてきた、すばらしい抵抗力も今やうちくだかれ、士気がきわめて下がったことが、まったく明白になったからです。中国軍は、日本軍の優秀な大砲・タンク・空軍による猛攻に、最後まで耐えられるものではなかったし、日本軍が杭州湾上陸に成功し、中国軍の側面と後方を攻めたことが、中国軍の壊滅を決定的なものにしました。南京の陥落も目前のように思えました。
十二月一日、南京市長馬氏は、事実上、安全区の行政責任をわれわれにゆずり、同時に警察官四五〇名、米三万担(二〇〇〇トン)小麦粉一万袋と若干の塩を引渡しました。それに現金一〇万フランの支払約束を与えましたが� �そのうち八万フランをその後で受けとりました。唐将軍は、最近処刑されたということを聞きましたが、将軍は首都防衛の任を帯び、安全区から軍隊と高射砲を一掃するという非常に困難な仕事に概して非常によく協力してくれました。それで、十二日の日曜日に日本軍が入城を開始する直前までは、称賛すべきほどの秩序が維持されていました。食料を求める兵士たちのちょっとした例外を除いて略奪はありませんでした。全市の外国人の財産は尊重されていました。水道は十日まで、電気はその翌日まできていたし、電話は事実上、日本軍の南京入城当日まで通じていました。われわれはいちども、深刻な危機感を感じませんでした。というのは、日本軍は安全区への爆弾投下や砲撃を避けているように思われたからです。日本軍が来 てからの地獄にくらべれば、南京は秩序と安全の天国でした。トラック運送にいくらか困難があったことは事実です。つまり、米は市外に貯えてあったし、運転手のなかには、砲弾が落ちてくる場所へ出ていきたがらないものがいたからです。ひとりは砲弾の破片で片目を失い、われわれのトラック二台が軍に奪われましたが、その後の困難にくらべれば、そんなことは何でもありません。
十二月十日に、難民が安全区に流れこんできました。金陵女子文理学院・陸軍大学、その他の学校など公共の建物はほとんど満員だったので、今や最高法院・法学院・華僑招待所までも収用して、かぎのかかっているところはこじあけ、われわれの方から管理人をおくことにしました。ちょうど紫金山の上空に日本軍砲兵の観測気球が見えました が、おそらく大砲攻撃を指揮するためのものだったのでしょう。重砲は南門をうち砕き、市内に砲弾が落下していました。翌朝、安全区内のちょうど南端に数発の砲弾が落ち、聖書師資訓練学校と福昌飯店附近で、約四〇人が死にました。われわれの調査員であるドイツ人のスパーリング氏も、後者すなわち彼が住んでいる福昌飯店の近くで、軽いけがをしました。アメリカの砲艦パネー号は上流にむかいましたが、その出航の前に私は大使館のパクストンから電話をもらいました。しかし、市の城門は最後の一つがすでに閉ざされており、私たちは砲艦に乗船する権利を失っていました。彼は南京あての最後の海軍無線電報二通を伝えました。もちろん、彼は市外から電話したわけです。電文はウィルバーとボイントンからのものでした� ��
私たちの外国人仲間はいまでは二七名で、アメリカ人一八名、ドイツ人五名、イギリス人一名、オーストリア人一名、ロシア人二名からなっています。パネー号は二名の残留大使館員アチソンとパクストンのほか六名をのせて江上にありました。美孚煤油公司と亜細亜火油公司の発動機船にはもっと大ぜいの人びとが乗船していました。船体は水上ホテルのように装備され、ドイツ大使館員ローゼン博士を含めて約二〇名の外国人と約四〇〇名の中国人をのせて、他の船といっしょに上流に引いていかれました。全員が早く南京に帰りたいと思っていました。そのうちの何人ほどが亡くなったかはわかりませんが、今では誰もしばらくの間は南京には帰れないでしょう。それに彼らが目にする南京はどんな姿になっていることでしょ� ��。
十二日の日曜日に、私は安全区の自分の事務所で、終日仕事におわれていました。軍事委員会委員であり、最近外交部部長になった張群将軍の旧公館を、私たちは本部につかっていました。そこはとても居ごこちよくできており、南京市内でも最もすぐれた防空壕を備えていました。
私たちの水はどのように汚染されている?
ここ二日間、飛行機がわれわれの上空をほとんどひっきりなしに飛んでいましたが、今はもうそれを気にするものは誰もいません。砲火はすさまじいものでした。城壁は突破され、南京南部の損害たるや大変なものでした。中国人の死傷者がどれほどだったか、誰にもわかりませんが、莫大な数だったに違いありません。日本軍も南京占領に四万人の損失を出したと自ら言っています。総退却はその日の午後早くから始まっていたに違いありません。兵士たちが南方から市内に流れこみ、そのうちの多数が安全区を通過してゆきましたが、彼らのふるまいはりっばで整然としていました。唐将軍は、日本軍と休戦協定を結ぶために、われわれの援助を� ��めてきました。スパーリング氏が旗と伝言をたずさえてゆくことに同意したが、時すでにおそすぎたのです。彼(唐)はその夜逃亡し、その知らせが広まるとすぐに全市が混乱におちいりました。みんなが下関へ通じる城門や川(揚子江)の方へ行くさいに恐慌状態がおきました。道路には彼らが棄てていったライフル銃・弾薬・ベルト・制服・自動車・トラックなどが何マイルにもわたって散乱していました。それらはすべて軍用品でした。動きのとれなくなったトラックや自動車が転覆し、火に包まれていました。市の城門では、さらに多くの自動車がひしめきあい、焼き払われていました。恐るべき全燔祭(ホロコースト)です。足もとには死体が累々としていました。城門は閉鎖されているので、恐怖に狂った兵士たちは、城壁をよじ� ��り、綱とか、つなぎあわせたゲートルやベルトとか、衣服をひきさいたものとかを使って、向こう側におりてゆきました。落ちて死んだものも多数いました。揚子江はわけても凄惨な光栄でした。一隊の帆船があるにはあったのですが、北岸に渡ろうと狂気のようになった群集にはそれでは全く役に立ちませんでした。超満員の帆船は転覆し、沈没しました。何千人という人が溺死しました。河岸でいかだを組んで渡ろうとしたものも大ぜいいましたが、同じ運命をたどっただけでした。うまく逃げられたものも多数いたでしょうが、このうちの多くのものも一日か二日後には、おそらく日本軍の飛行機に爆撃されたことでしょう。
以下は中国軍の三つの中隊のちょっとした顛末です。これらの中隊は将校のもとに再結集し、三マイ� ��上流の三汊河を渡り、その方向から入って来る日本軍を攻撃したのですが、敵の数の方が多く、実際には殲滅されてしまいました。どうにか逃げ帰ったのは、ただのひとりだったようです。この人はたまたま私の友人の兄弟で、翌朝、私の事務所にやってきて、その話をしたわけです。もうひとりの将校と二人で、前に筏で渡ったことのある揚子江に向けて小さな支流を泳いでいるうちに、仲間の将校は溺死したのでした。そこで彼は夜が明けないうちに何とか城壁をよじ登り、気づかれないようにそっと逃げこんだのです。
われわれがここ南京でそれを味わってきたし、またその上によりよい日々をめざして希望を託してきた、幸福で平和な、秩序正しい進歩的な体制は、こうして終りを告げました。というのは、日本軍がすでに� ��京に入城し、彼らと共に恐怖と破壊と死が訪れたからです。十三日の午前二時、安全地区にはじめて日本軍の侵入が知らされました。私は委員会のメンバー二人と一緒に車で彼らに会いにゆきましたが、それは安全地区の南側の入口にいる小さな分遣隊でした。彼らは何の敵意も示しませんでしたが、その直後には、日本軍部隊の出現に驚き、逃げようとする難民二〇人を殺したのです。一九三二年の上海同様に、ここでも、逃げるものは誰でも射殺あるいは銃剣で突き殺さねほならぬというのが、規則であるかのように思われました。
一方、われわれは、逃げることができず保護を求めて安全区にやってきた兵士たちを武装解除するのに本部で忙殺されていました。武装を捨てれば、日本軍から命は救ってもらえるだろうといって� ��われわれは彼らを安心させました。しかし、それはむなしい約束でした。彼らはそのあと拉致されて、実際に射殺されるか、軍刀で斬殺されるか、あるいは銃剣術の訓練につかわれるかされたのですが、そんなことならむしろ、全員がいさぎよく戦って死んでいきたかったことでしょう。
その日、砲撃がまだ若干ありましたが、安全区に落ちたものはほとんどありませんでした。われわれはその夜、裏庭でりゅう散弾の破片を数個見つけました。ウィルソン医師は、手術中に手術室の窓を貫通してきたりゅう散弾の破片からかろうじてのがれました。砲弾七発が金陵大学の新しい宿舎を貫通しましたが、死傷者はありませんでした。すばらしい大広間があって、南京全市でもっとも美しい建物である交通部のビルが炎に包まれていま� ��たが、砲撃によるものなのか退却のさいに中国軍が放火したものなのか、われわれにはわかりません。
十四日の火曜日に、日本軍、つまり戦車や大砲や歩兵やトラックが、町になだれこんできました。恐怖時代が始まったのです。その後の一〇日間は日に日に烈しさと恐怖が増してゆきました。日本軍は中国の首都、憎い蒋介石政府の所在地の征服者であり、彼らは好きなようにふるまうことができたのです。飛行機から南京上空でビラがまかれ、これには日本軍は中国人の唯一の真の友であって善良な人々は保護するとありましたが、もちろんそれは、彼らの声明の大半と同様で、単なる声明以外の何ものでもありませんでした。それに、彼らの〝誠意〟の見せ方というのは、強姦・略奪・殺人を意のままに行なうことでした。わ� ��われの難民収容所から男たちが群をなして連行されました。そのときは労働に使われるものとばかり思っていましたが、その後彼らからなんの音沙汰もなく、これからも音沙汰はないでしょう。ある陸軍大佐が部下をつれて私の事務所を訪れ、一時間もかかって〝六〇〇〇名の武装をすてた兵士″がどこにいるかを知ろうとしました。その日四回も日本兵がやってきて、われわれの自動車を盗もうとしました。その間に他の兵隊たちが別のところにあったわれわれの自動車三台を盗み出してしまいました。ソーン氏の家では、氏がたった五分間スタンリー教授の家に行っていた留守中に、日本兵が米国旗を引き裂いて地面に放り出し、窓を一つこわして去ってゆきました。彼らはわれわれのトラックを盗もうとして、実際にどうやら二台� �に入れました。それ以来、米や石炭を運ぶのに、アメリカ人二人が大半の時間をさいてトラックを運転する必要がありました。彼らが毎日のように日本軍の自動車泥棒たちとやりあった体験は、それだけでもおもしろい話になるでしょう。また日本兵は鼓楼医院でも看護婦の時計と万年筆を奪いました。
『ニューヨーク・タイムズ』のダーディンが、その日、車で上海に向けて出発しました。彼が何とか無事にたどりつくとは、われわれの誰一人として信じていませんでした。私は手紙を走り書きして、彼にもっていってもらったのですが、彼は句容で後戻りをさせられました。何とか河へたどりついた『シカゴ・ディリーニューズ』のスティールは、日本の駆逐艦多数がちょうど到着したところだと報じました。ある大尉が彼にパ� �ー号沈没のニュースを伝えましたが、詳細なことは知らなかったし、沈没した他の船についてもふれなかったのです。彼らはわれわれを乗船させるために全力をつくし、城壁をのりこえて河へ出られるように、ついにはロープを二本用意までしてくれたのでしたが、まったく皮肉なことに、パネー号は爆撃されて、われわれの方は今のところまだ無事なのです。
ジーメンス中国会社の南京支部長をしているわれわれの委員長ラーベ氏と、秘書のスミスは、指揮官に会い、許しがたい混乱を止めさせようと思って、軍司令部を訪れたのですが、指揮官はまだ入城していなかったので、翌日まで待たなければなりませんでした。いずれにしても、彼らの訪問はまったく無駄骨折であったわけです。
水曜日に私は、安全地区を出たとこ� ��にある自分の家へ車ででかけて、万事うまくいっているかどうか見て廻りました。昨日、門は無傷でしたが、今日見ると、わきの門はこじあけられ、南側のドアがあいていました。細かくしらべるひまはありませんでしたが、ちょうど道路をはさんで向かい側に引っ越してきた親切そうな陸軍少佐に、私のところに気を配っていてくれるように頼んでみたところ、それを承知してくれました。海軍の参謀将校が一人、私を待っていました。彼はパネー号が失われたことに深い遺憾の意を表明しましたが、彼もまた詳しいことを伝えることはできませんでした。海軍はアメリカ人居住者が上海に行きたいならば喜んで誰でも駆逐艦に乗せて送り届けようし、また単に私的なものなら無線電信を打ってさしあげるというのでした。私が書きつ� �た〝上海全国委員会、ウィルバーへ。南京の外国人は全員無事。その旨、関係者に伝えられたし〝という簡潔な電文を読み、また私が、一、二名の新聞記者を除いてわれわれ全員が南京に留まりたいというと、彼はいささか失望したようでした。
私は彼を車で船のところまで送ってゆこうと申し出ました。彼はここへくるのに四マイルも歩かされたからです。しかし、途中で私たちは陸軍少佐に呼びとめられ、この人のいうには、中国兵若干を逮捕中でもあり危険だから、一般市民はこれより北に行くことは許されないとのことでした。その時、われわれの居場所はたまたま軍政部のそばであって、私をこれより先へ行かせたがらない本当の理由は、多数の無辜の市民を含む何百という哀れな武器をすてた兵士たちの処刑が行なわれ� �いるからだということは、あまりにも明白でした。そこで、大日本帝国軍艦勢多の関口氏はその後ずっと歩かなければなりませんでした。その日の午後、私はつっけんどんな少佐を出しぬいて、裏道を通って下関まで行きました。城門で誰何されましたが、ロイター通信のスミスやスティールと一緒だったので、けっきょく通行を許可されました。両氏は例の駆逐艦で出発することになっていました。城門のありさまについてはすでに述べたとおりです。われわれは文字通り死人の山をこえて車を走らせてゆかねはなりませんでした。その光景はことばでは言いあらわせません。私はこの車で出かけたときのことをけっして忘れないでしょう。
桟橋にはすでに『ニューヨーク・タイムズ』のダーディンとパラマウント映画のアート・� �ンケンが来ていました。私は彼らと西北・山西・西安へ旅行してきたばかりでした。彼らもここを出発するところだったのです。それに私はダーディンにかわって彼の車でアメリカ大使館にもどることを約束していました。日本大使館の奥村氏もちょうど上海から着いたところで、パネー号と美孚煤油公司船団の死傷者名をわれわれに教えてくれました。私は彼に市内まで車に乗せてあげようと申し出ました。しかし、城門でまた誰何され、今度は守備兵がどうしても私を入れてくれませんでした。外国人は誰も南京に入るのを許されないし、私が南京から出て来たばかりだといっても同じことでした。奥村氏の頼みもむだでした。日本の大使館は軍にたいして何の威力ももたないのです。できることといえば、奥村氏が車で軍司令部に行 き、おりかえし特別通行許可書をよこしてくれるのを待つことだけでした。一時間半かかりましたが、私は外部から私に届いた最後の郵便物『リーダーズ・ダイジェスト』の十一月号をもっていたので、またたくまに時間がすぎました。城門では悪臭がものすごく、あちこちで犬が死体を食いあさっていました。
当時彼らはどのように天然資源を使用しました
その夜、職員の会議中に本部の近くにあるわれわれの収容所の一つにいる全部で一三〇〇人の難民を、兵士たちがつれだして銃殺しようとしているという知らせがありました。われわれはその中に多数の元兵士がいることを知っていましたが、この日の午後、ラーベに対して、ある将校が彼らの生命は助けてやると約束したばかりでした。彼らが何をしようとしているか、今となっては明々白々でした。男たちは着剣した兵士たちによって整列させられ、一〇〇人ぐらいずつ一団にして数珠つなぎにされました。帽子をかぶっていたものはそれを荒々しくはぎとられて、地面になげすてられました。それからわれわれはヘッドライトの明りで、彼ら が刑場へ行進していくのを見ました。あの群衆のなかからはすすり泣きひとつ聞こえませんでした。われわれ白身の心もしめつけられるようでした。南方からずっととぼとぼ歩いてきた末、昨日不本意ながら私に武器をわたした広東出身の四人の青年もその中にいたのではないでしょうか。それに北部出身の、あの背の高いがっしりした下士官が、あの生死にかかわる決定をしたときに見せた幻滅のまなざしが、いまだにつきまとって、私を悩ますのです。日本軍が命を助けてくれるだろうなどと、彼らにいった私は何と愚かだったのでしょう。われわれが信じこんでいたのは、日本軍が少なくともある程度は約束を守ってくれるだろうということだったし、彼らの到着と共に秩序がうちたてられるだるうということでした。現代において� ��そらく類のない非道と残虐行為を見ようとは夢にも思わなかったのです。というのは、その後もっと悪い日々が訪れたのでした。
日本軍が依然としてわれわれのトラックや自動車を盗むので、十六日には輸送問題が深刻になりました。私は、中国人職員がこれまでどおり待機しているアメリカ大使館に行き、アチソン氏の車を借りて、ミルズに石炭を運んでもらいました。というのは、ぼう大な数の難民が集まっており、三つの大きな炊飯場は、燃料も米も必要としたからです。われわれのところには今では二五の収容所があり、それらの収容人員は二〇〇人から一万二〇〇〇人に及ぶものでした。金陵大学だけでも三万人近くいました。婦人子供用にあてた金陵女子文理学院では、三〇〇〇人がまたたくまに九〇〇〇人以上にふく� ��あがりました。そこは渡り廊下まで満員で、足の踏み場もないほどでした。われわれは一人当り一六平方フィートと計算していたのですが、実際には、もっとぎっしりつまっていました。安全な場所はどこにもなかったのですが、われわれは何とかして、金陵女子文理学院では、金陵大学に比べてかなりの安全を保つように努めたのです。ミス・ヴオートリンとトゥイネム夫人と陳夫人は、婦人たちの世話や保護に献身的に働きました。
その日の朝から強姦事件が報告されるようになりました。われわれの知人のなかでも一〇〇人以上の婦人が兵士たちに連行されましたが、そのうち七人は大学の図書館の職員でした。しかし、自宅で強姦されたものはその何倍もいたに違いありません。何百人という婦人が街に出て、安全な場所を� ��がし求めました。昼食時に、住宅委員補佐のリッグズが、悲嘆にくれてやってきました。日本軍が法学院および最高法院の難民を全員拉致してゆきました。その運命は察するほかありません。われわれの民警も五〇名運行されました。リッグズが抗議したのですが、ただ兵士たちに乱暴に扱われるばかりで、おまけに将校から二回なぐられたのでした。難民は身体検査されて金の有無を調べられ、身につけているものは、何でも時には残る一つの寝具類にいたるまで奪われました。四時の職員たちの会議中に、近くで処刑班の銃声がきこえました。気の毒な難民にとっても、われわれ自身にとっても、言うに言われない恐怖の日でした。
私はバック教授の家へ昼食にゆく途中、他に六人の人と一緒に住んでいる自宅へ車でちょっと立� ��寄ってみました。米国旗二枚はまだ掲げたままになっており、大使館の布告も門と正面のドアにはってありましたが、わきの門はこわされ、ドアは開けはなされていました。内部はめちゃくちゃでした。引き出しも押入もトランクもすべてこじあけられ、かぎはこわされていました。屋根裏部屋など足の踏み場もないほど散らかっていました。何がとられたか調べてみることはできませんでしたが、寝具はほとんどなくなっており、若干の衣類や食料までなくなっていました C・T・王博士から贈られた彫刻をほどこしたチーク材の衝立は刺繍のしてある羽目板がはぎとられ、ずっしりしたオーク材の食器だなはこわされていました。最後まで残っていた新聞記者、AP通信社のイェイツ・マクダニエルは、午後、別の駆逐艦で上海に向かい� ��した。私は短い手紙を彼にことづけましたが、無事に届けばと思います。」
第二章
略奪・殺人・強姦
筆者は日記体の叙述を続けながら次のようにいう。
「十二月十七日、金曜日。略奪・殺人・強姦はおとろえる様子もなく続きます。ざっと計算してみても、昨夜から今日の昼にかけて1000人の婦人が強姦されました。ある気の毒な婦人は三七回も強姦されたのです。別の婦人は五カ月の赤ん坊を故意に窒息死させられました。野獣のような男が、彼女を強姦する間、赤ん坊が泣くのを止めさせようとしたのです。抵抗すれば銃剣に見舞われるのです。たちまちのうちに病院は日本軍の残虐と蛮行の犠牲者たちで満員となりましたが、ボブ・ウィルソンは、われわれのところではたった一人の外科医だったので� ��手いっぱいどころではなく夜半まで働かねばなりませんでした。人力車・家畜・豚・ロバなど、しばしば人々の唯一の生計のもとであったものが奪われています。われわれの炊飯場や米屋も干渉を受けました。われわれは米屋を閉店しなくてはなりませんでした。
夕食後、私はベイツを大学に、またマッカラムを病院につれてゆきましたが、彼らはそちらで泊ることになるでしょう。それから、ミルズとスミスを金陵女子文理学院へ連れてゆきました。というのは、われわれのグループのうち一人が交代で毎晩そこで寝とまりしていたからです。金陵女子文理学院の門のところでわれわれは探索隊と覚しきものに誰何されました。われわれは銃剣を突きつけられて乱暴に車からひきずり出され、私の車のかぎは取りあげられました� ��一列に並ばせられて武器の有無を調べるために身体をなでまわされ'帽子はもぎとられ、顔には懐中電灯をつきつけられ、パスポートと来訪の目的を訊ねられました。われわれの正面には、ミス・ヴォートリン、トゥイネム夫人、陳夫人とともに、何十人もの難民の婦人がひざまずいておりました。下士官は少し仏語を話す男でした (私と同じ位のものです)が、ここには兵隊がかくまわれていると主張するのでした。私は約五〇人の使用人とその他の職員以外にその場所には男はいないと主張しました。彼はそんなことは信じられないといい、その数をこえるものを見つけたら全員射殺するつもりだといいました。それから彼は、女性たちも含めて、われわれ全員がその場を去ることを要求したのです。ミス・ヴォートリンが拒絶すると� �乱暴に車の方へひったてられました。それから彼の気が変わって、女性たちはとどまってもよいが、われわれは退去するようにというのです。われわれはわれわれのうち一人が残ることを主張しましたが、彼はそれを許可しようとしませんでした。われわれは釈放されるまで一時間以上も立たされておりました。翌日、われわれはこの悪党が学院から一二人の少女を誘拐したことを知りました。
十二月十八日、土曜日。安全区内で一ブロック離れたところに住んでいるがわれわれと一緒に食事をとるリッグズが、朝食時に報告したところでは、二人の婦人(そのうちの一人はYMCAの秘書の従妹)が彼の家で強姦されたというのです。その時、彼はこちらへ昼食にきていたのです。ウィルソンの話では、五歳の男の子が来院したが、銃 剣で五回も突き刺されており、一回は腹部を貫通していたとのことです。一八カ所に銃剣の傷をうけた男、顔に一七カ所の切り傷と足に数カ所の傷をうけた婦人もいました。午後に四、五〇〇人の恐怖にかられた婦人がわれわれの本部構内になだれこんできて、露天で一夜を過ごしました。
十二月十九日、日曜日。完全に無秩序の一日。兵士たちの放火によって大火事がいくつか発生し、今後さらに起る様子です。米国旗が多くの場所でひきずりおろされました。アメリカン・スクールでは国旗が踏みにじられ、管理人はもし国旗をまた掲揚するなら殺すぞといわれました。日本大使館によって公布され、アメリカ人およびその他の外国人の資産の建物にはってありました布告は、兵士たちによって侮辱され、しばしば故意に破りとら れています。一日のうちに五回から一〇回も強盗に押し入られた家もあって、気の毒な人びとは略奪され、強盗をうけ、婦人たちは強姦されたのです。数名のものは、全然理由もないのに残酷に殺害されました。われわれの衛生班員七名のうち六名が一つの地区で虐殺されました。生き残った七人が逃げのびてこの話をしたのであります。今日の夕方にかけて、われわれのうち二人がブラディ博士の家にかけつけ(彼は留守でした)強姦を行なおうとした四人の者を追い出して、そこにいた婦人たちを全員大学へ連れてゆきました。スパーリングはこの追いかけっこで一日中忙殺されています。私はまたわが大使館のダグラス、ジェンキンズの家へゆきました。国旗はまだ無事でした。しかし、彼の家のガレージにはボーイが死んで横たわっ� �おり、別の召使の死体が、ベッドの下にありました。双方とも残酷に殺害されております。家は混乱をきわめておりました。通りにはまだ多くの死体があります。われわれの見たところでは全部が一般市民です。紅卍字会が彼らを埋葬するでしょうが、トラックは盗まれ、棺桶は焚火に使われてしまい、会の標識をつけた労務者の何人かが拉致されました。
スマイスと私は、五五件の暴行事件の追加リスト(全部に確証があります)をもって、再び日本大使館を訪れ、田中氏と福井氏に今日の状態はきわめて悪いと告げました。両氏はわれわれに、「最善をつくす」とか、事態が「すぐに」よくなることを希望するとかと保証してくれましたが、彼らが軍にたいしてほとんど、あるいはまったく影響力をもたないことはきわめてあきらか であります。軍は兵士にたいし何ら統制力をもっていないのです。また、われわれのきいたところでは、最近、憲兵が一七名到着したので、彼らは秩序を回復するのを助けるだろうとのことでした。五万余もの軍隊にたいしてたったの十七人!といっても、われわれは大使館の三人の人にたいしてむしろ好意をもっております。たぶん彼らはそれなりに最善をつくしているのでしょう。それでも、彼らが車と機械工一人を獲得するのに私の援助をもとめた時には、苦笑せざるをえませんでした。というのは、われわれ自身の車ですらどれだけ盗まれたか知れないのですから。私は彼らにあなた方の軍のところへいったらと言いたいところでしたが、それでも、彼らをアメリカ大使館へ連れていって、大使の車とその他二人の館員の車を借り� ��やり、あとからわれわれのところにいるロシア人の修理工を彼らのところへゆかせました。
十二月二十日、月曜日。蛮行と暴力はとどまるところなく続いています。市の全域が組織的に焼き払われているのです。午後五時にスミスと私は車ででかけました。市内でもっとも繁華な商店街である太平路一帯は炎上しておりました。われわれは火の粉が雨のように降るなかを燃えがらの上を車で走ってゆきました。もっと南方では、兵士たちが商店に入っていって放火するさまを見ることができましたし、さらに、さきでは兵士たちは略奪品をトラックに積みこんでいました。次にYMCAにゆくと、そこも炎上中でしたが、これはほんの一時間か二時間前に放火されたことはあきらかです。まわりの建物はまだ無傷でした。私はこうし� ��ものを見ているにしのびなかったので、いそいで通り過ぎました。その夜、私が窓ごしに数えてみますと、火の手が一四カ所に上っておりましたが、そのいくつかのものはかなりの範囲におよんでいた。
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ここにいるわれわれグループは、上海のアメリカ総領事館あてに、状況が緊迫しているのですぐにこちらへ外交官を派遣するようにと要請する電文を起草し、それから海軍無線によってこれを送信してくれるように日本大使館にたのみました。いうまでもなく電報は発信されませんでした。
十二月二十一日、火曜日。われわれ一四人は二時半に田中氏を訪ねて、市の焼打ちと無秩序の連続に抗議する二二名の外国人の署名入りの手紙を提出しました。またも約束がなされたのです!ラーべは自分の家のことを心配しています。というのは、通りをへだてて向かいの建物が燃えているからです。彼のところでは庭にあるよしずばりの小屋に四〇〇人の難民が暮らして います。食糧問題が深刻になりつつあるのです。飢えた難民のうちには大学で騒ぎを起すものも出ました。石炭の貯えはじきになくなるでしょうがリッグズは新たな貯えをさがしています。日本軍は石炭と米の補給をすっかり封鎖してしまいました。今日、兵隊が塀を乗り越えてわれわれの家へ押し入り、われわれ全員が留守のうちに車を奪いさろうとしました。そしてまた、別の時のことですが、彼らはソーンのトラックを奪いとるところでした。今日、ラーべはドイツ大使館のローゼン博士からの手紙を田中氏をつうじて受けとりましたが、その手紙によれば、ローゼン博士は下関にいる英国軍艦ビー号に乗船中であるが上陸を許可されないとのことでした。なお、ローゼン博士はドイツ資産についてたずねていました。二軒の家、つ� ��り大使の家とラーベ自身の家は略奪に遭わず、車も二台まだ無事で残っていることをしらせるのは嬉しいことだ、とラーべは返事をかきました(南京にはドイツ人の住宅が五〇軒以上もあります)。
十二月二十二日、水曜日。今日午前五時に射撃隊がすぐ近所で仕事をしていて、一○○発以上も銃声が数えられました。大学は夜間、二度も押し入られて、門にいた民警は銃剣を突きつけられ、ドアはこわされました。先頃、部署についたばかりの日本憲兵隊は寝すごしていたのです。新任の日本憲兵隊の代表たちが訪れて、一月一日までに秩序を回復すると約束しました。彼らはまた自動車とトラックの貸与をもとめました。私はスパーリングと一緒に本部の東側、四分の一マイルのところのいくつかの池にある五〇体の死体を見にゆ� �ました。全員が一般市民であることはあきらかで、後手に締りあげられ、一人は頭の上半分をすっかり切り落されていたのです。彼らは軍刀の試し斬りに使われたのでしょうか?昼食に帰宅する途中、車を停めてYMCAの書記の父親が酔っぱらった兵隊に銃剣で脅かされるのを助けてやりました。気の毒な母親は恐怖で半狂乱でした。帰って落ちつく前に、ジーとダニエルの家から兵隊を追い出すため、二人の同僚と駈付けなくてはなりませんでした。兵隊たちはそこで婦人を強姦しようとしていたところだったのです。あの勇敢な兵隊がわれわれに追いかけられて有刺鉄線をのりこえようとするさまをみると、笑いをおさえきれませんでした!
ベイツとリッグズは昼食もそこそこに出ていって、金陵大学の養蚕所から兵隊を追い出さ なくてはなりませんでした。兵隊の何人かは泥酔していました。私が事務所に着くとすぐに、スパーリングとクレーガーからS・O・Sの呼び出しがあって、ラーベと私がそれに答えました。彼らは銃剣をもった酔っ払いにひどく脅かされていたのです。運よく大使館の田中が将軍の誰かと一緒にちょうどその時来あわせ、兵隊は将軍から数度顔に平手打ちをくわされましたが、それ以上の罰をくったとは私には思えません。われわれは軍紀などというものについては、きいたこともありませんでした。兵隊が将校か憲兵につかまっても、そんなことを二度としてはいけないと、きわめて丁重に命令されるのです。夕方、私は夕食後リッグズと歩いて家に帰るところでした。リッグズの家ではわれわれが帰るちょっと前に五十四歳の婦人が� ��姦されました。婦人たちを運命のなすがままにまかせておくのは残酷なことですが、といって、われわれがかかりっきりになって彼女らをまもってやることもできないのです。下関にある電気会社の技師の呉氏がおかしいニュースを伝えてくれました。彼によれば、五四人の労働者は南京陥落の日まであれほど健気に職場をまもり続けたのですが、とうとう揚子江岸のイギリス系の国際輸出会社に避難する破目になり、そのうち四三人は、発電所が政府機関だという理由で(実際にはそうではありませんが)拉致されて銃殺されたとのことです。日本側官憲は、これら労働者の一人一人をつかまえて発電機を始動させ、送電しようとして、毎日私の事務所にやってきたのであります。あなた方の軍隊が労働者の大半を虐殺してしまったのだと 、彼らにいってやることはせめてもの慰めでした。
十二月二十三日、木曜日。今日はソーンが虐待をうけた。彼がスタンリー・スミスの家に行ったところ、一人の士官と兵士がアメリカ国旗を引きおろし、日本側の布告をひきはがし、そこに住んでいる難民を追い出してしまったところでした。彼らは日本軍がその場所を登記所にするというのでした。ソーンはかなり不愉快な目に遭ったに違いありません。というのは、その場所を二週間使用する権利を日本軍に与えるという書類にとうとう署名せざるをえなかったからです。それにソーンという男は、ものごとをそのままですませてしまう人間ではありません!大使館にたいする抗議のすえに、兵隊をその場所から追い出すことができたのです。農村師資訓練学校にあるわれわれの� �容所から七〇人が拉致されて銃殺されました。まったくデタラメです。兵隊たちは怪しいと思ったものは誰でもひっつかまえます。手にタコがあるとその人が兵隊だったという証拠になり、確実にあの世行きです。人力車夫・大工、その他の労務者がひんぱんに拉致されます。正午に一人の男が本部につれてこられたのですが、頭は黒こげで、目も耳もなくなっており、鼻も欠けてしまっていて、ものすごい有様でした。私は彼を自分の車にのせて病院につれてゆきましたが二、三時間後に死んでしまいました。彼の身の上話というのは、何百人かの仲間といっしょに縛られて、ガソリンをかけて火をつけられた一人だということでした。彼はたまたま外側にいたので、ガソリンが頭にかからなかっただけのことなのです。その後、同じょ うな患者が病院にかつぎこまれましたが、火傷はもっとひどいものでした。この男もまた死亡しました。おそらく彼らは最初に機銃掃射をあびせられたが全部が死んだわけではなかったと思われます。最初の男には全然外傷がありませんでしたが、二番目の男にはありました。その後さらに私は、鼓楼の反対側にある私の家へゆく道の角で、また別の男が同じように頭と腕を火傷して横たわっているのを見ました。彼がようやくのことで、もがき出てここまで来て死んだことは一目瞭然です。信じがたい暴虐!
十二月二十四日、金曜日。アメリカ大使館にいる一人の中国人が伝えるところでは、大使館に居住している中国人職員とその身よりの者全員が、部下をつれた一人の将校によって昨晩、略奪をうけたということです。パストン の事務室のドアには銃剣が突き通され、大使館の構内から三台の車が盗まれ、今朝もまた二台が盗まれたのです。その後、私は田中氏にメンケンの車は盗まれてしまったといってやりました。昨日私は彼にこの車を使わせてあげようと約束したのに、盗まれた車のうちにそれが入っていたからです。中国人の登録は今日はじまりました。軍部の言によれば、まだ安全区には二万人の兵士がおり、これらの〝化物ども〟を一掃しなくてはならないというのです。一〇〇人残っているかどうか私は疑問に思います。とにかく、さらに多くの罪もない人びとが危害をこうむるに違いないし、全員がおびえて神経質になっているのです。中国人の自治委員会が日中氏のすすめで一昨日結成されましたが、これが助けになるでしょう。しかしすでにス� ��イどもが仕事をはじめています。われわれはここでその一人を捕えました。私は彼がひどく打たれるところを助けてやり、地下室に監禁しておいて、あとで中国側の警察に引きわたしました。彼をどうするつもりでしょうか?彼は絞首刑にされるのではないかと思いますが、それでもうかつなことはするなとはいっておきました。今日も日本軍からの不断の干渉です。われわれの衛生班からさらに多くの者が拉致され、また金陵大学の門にいた民警も連れてゆかれました。彼らはたえずわれわれのトラックを手に入れたがっているのです。日本軍はまたわれわれの石炭置場の一つを封鎖したのですが、リッグズが話をつけて、とうとうそれを解除させました。
クリスマス・イブ。クレーガーとスパーリングとトリマー博士がわれわれと 夕食をともにしましたがロースト・ビーフにさつまいもをつけあわせた、おいしい夕食でした。日本兵が家の塀を乗り越えて一日に何度もやってくるので、ラーべは家を離れようとはしませんでした。彼は門から兵隊を出してやることをせず、いつでも入って来たところ、つまり塀ごしに帰らせています。誰でも異議を唱える者がいれば、ラーベは彼の国では最高の勲章であるナチスの腕章を面前につきつけ、これが何かわかるかと、彼らに訊ねるのです。これはいつでも効果覿面でした!夕方に彼はわれわれのところへ加わり、各々にきれいな革表紙のジーメンスの日記帳をくれました。われわれはウィルソンのピアノ伴奏でクリスマスの歌を歌いました。
クリスマス・デー。天気についていえば申し分のない一日でした。そして事 態もやや改善したように見えます。街路には住民が群がり、もの売りの露店もかなり沢山出ていました。しかし、昼食時に、われわれがミス・ヴォートリン、ミス・ボーアー、ミス・ブランシュ・呉(訳音)とミス・パール・ ブロムリー・呉をお客に迎えて、がちょう肉の焼肉を食べている間にも、三度も助けを求める叫びに応じて、兵隊どもをフェンの家、中国人教職員宿舎・養蚕所から順に追い出さなければなりませんでした。この日、アメリカ国旗が農村師資訓練学校から引下されました。七人の兵隊が昨夜とその前夜を聖書師資訓練学校で過し、婦人たちを強姦したのです。われわれの隣家といってもいいところで十二歳の少女が三人の兵士に強姦され、他の十三歳の少女も強姦されました。われわれの助けも手遅れだったのです。銃剣でやられた患者もさらに多数出ました。ウィルソンの伝えるところでは、病院の患者二四〇人のうち四分の三は占領以来の日本軍の暴行によるものだそうです。大学で登録がはじまりました。住民は、お前たちのうちに� ��か兵士出身のものがいないかどうか、もしいたら労務班に使役して、生命を助けてやるから、前に出よといわれました。およそ二四〇人が進み出たのですが、彼らは一団にされて拉致されました。二、三人の生き残りが語るところでは、彼らは傷を負ってから死んだふりをして逃亡し、病院へ来たのだそうであります。一団のものは機銃掃射をうけ、別の一団は兵隊に取り囲まれて銃剣刺殺の練習に使われたのです。われわれの診た患者のなかで、処刑隊に逢いながらも、一つ二つ傷を負っただけで逃れたものも多かったのであります。おそらく彼らは昼のうちも、夜になっても、発見をおそれて、仲間の死体におおわれたまま横になっており、それから病院や友人のところへやってきたのでありましょう。日本軍側はいささか不注意だ� �たわけです!
十二月二十七日、月曜日。日本軍占領下での三週目がはじまり、上海から日清汽船会社の船の到着した祝賀が行なわれています。会社の代表が四人、私の事務所を訪ねて、まもなく定期航路が揚子江に開設されることを約束しました。一行の中には多数の婦人がおり、市内見物に連れてゆかれたのです。彼らはキャンデーを一つ二つ子供たちにわけてやり、日本軍のえた驚くべき勝利のせいもあって、極めて気をよくしているように見えました。しかし、彼女らは何ら真相をきかされたわけでもなく、世界にも真相が知らされていないのではないかと私は思います。兵隊は依然としてまったく統制がとれず、軍と大使館の間には何らの協力もありません。軍は、大使館が発足させた自治委員会� ��承認さえも拒否し、委員会のメンバーは故意に無視されています。中国人は被征服民族であり、何らお情けを期待してはならないと彼らはいわれているのです。われわれの作製している混乱と残虐行為の例証のリストはうなぎのぼりになっており、報告され、あるいは目撃された例よりも、われわれの関知しない事件のほうが何倍も多いに違いありません。今日の事件を二、三挙げましょう。十三歳の少年がもう二週間近くも前に日本人に拉致されたのですが、仕事を満足にしなかったとかで、鉄棒で打たれ銃剣で刺殺されてしまいました。昨夜は、将校一人と兵二人をのせた車が金陵大学にやって来て、構内で三人の婦人を強姦し、一人を拉致しました。聖書師資訓練学校も何度も侵入をうけまして、ミス・バウアーの抗議にもかかわ� �ず、病院の夜間管理員が兵隊によって連れ去られたのです。市の焼き打ちは続いています。今日、市の南部にあるキリスト教ミッション・スクールの二つの建物が放火され、キスリング・ベイダー菓子店(ドイツ系)もやられました。ところが、大使館警察署長のタカタマはわれわれを訪問し、外国人の建物全部を保護すると現に約束し、スパーリングと一緒にドイツ人資産を検分に出かけました。私個人の考えでは、氏は分以上のことを約束していると思います。日本はなんという請求リストを提示したことでしょう(そんなことをするのは、みなまったく余計なことのように思えます)。というのは、南京にある何百もの外国人資産のほとんどすべてが日本軍によって略奪をうけているからです。それに彼らが盗んだ自動車のこともあ ります。私は、スミスと私が昨日、安全区の外で市の西北のはずれにある英国大使館を訪問したことを書くのを忘れたと思います。十一台あった車が全部と、それにトラック二、三台が兵隊に奪い去られましたが、運のよいことに召使いたちは何とか無事でした。各区画に乗りすてられた車が見られます。バッテリーやその他は使えるものですが、車は大ていひっくりかえされて、おきすてられております。
それでも今日は一つよいことがありました。それは日清汽船の船で日本大使館をつうじて鄺富灼(訳音)博士から私に手紙がとどいたことです。ここ三、四週間のうちにわれわれのところへ来た最初の手紙であり、また唯一の手紙です。博士はわれわれの救援の仕事に資金が要るのではないかということを知りたがっており、さ� �にロータリー・インタナショナルをつうじてのわれわれの訴えに応えて入ってくる金をいくらか保管することを申し出ました。まったく鄺らしいやり方です!われわれはまさに追加資金を、それも何千ポンドも必要としています。私はまもなくわれわれが必要とする金のことを思う度に悪夢にうなされるのです。というのは、いったいどこでそれを手に入れたらよいでしょうか?
十二月二十八日、火曜日。われわれが恐れていたもの--悪天候がきました。降りつづく氷雨が雪になったのです。小屋といっても多くは犬小屋同然のものに住んでいる気の毒な難民たちは悲惨な目にあうことでしょう。というのは、こうした小屋の多くは雨を防げないからです。それにぬかるみとなります。これまで快晴が続いたことは確かにわれわれにと� �て幸せでした。今日、私は収容所のいくつかを検分しました。収容所の多くのものの混雑状態はひどいもので、もちろん清潔にしておくことなど不可能です。収容所の管理人と助手たち(全員奉仕員)は規律の維持に概してすばらしい仕事ぶりをみせ、人びとに食事を与え、あたりをかなり清潔にしています。しかし、どれほどの期間われわれはこうした収容所を置いておかなくてはならないのでしょうか?いつ人びとは(といっても帰る家のあるものですが)、自宅にもどることを許されるのでしょうか?いつ秩序が確立されるのでしょうか?
私は今日はじめて学校へいってみました。それは私のすまいから大して離れていないところにあるのです。いっさいがごちゃごちゃになっていて、物理実験室の器具の多くが故意に破壊されていま� �た。運動場には牝牛の死体が半ば犬に食い荒されており、大使館の布告は門からはがされていました。
十二月二十九日、水曜日。今日は昨日より天気のよいのが幸いです。登録は極めて非能率に続きます。人びとはどこに、いつ出頭すればよいか何ら知らされないのです。さらに多くの難民が敗残兵として拉致されます。婦人や老人がやってきて、ひざまずいて泣きながら、夫や息子を取りかえすのに手をかしてくれとわれわれに頼むのです。二、三の場合にはうまくいきましたが、軍はわれわれが口出ししようものなら憤慨するのです。河岸におよそ二万人の難民がいるという下関からの伝言が中国赤十字社の代表をつうじてとどきました。日本軍の到着前にわれわれが彼らにもたせた米の配給はもうつきはてようとしており、大� �な苦難です。彼らは安全区に入りたいというのですが、われわれの方はすでに超満員の状態です。とにかく日本側はそれを許可しないし、われわれが出かけていって彼らを助けることも許さないでしょう。さしあたり彼らとしては、どうにかしてやって行かなければならないだろうと思います。
とうとう外国大使館にそれぞれ警備員が配置されました。しかし、なぜこれが二週間前になされなかったのでしょうか?われわれの家はまだ無防備のままです。われわれの収容所の若干のものに配備された数人の警備員は、助けになるどころか、しばしば面倒の種となっています。彼らは焚火や食物・寝床、しばしば他のものまで人びとに要求するのです。
十二月三十日、木曜日。私は今日、召使一八人をよび集めて、来月の十五日ま� ��の給料を払ってやり、今後、別の仕事を探さなくてはならないと彼らにいいわたしました。これはむずかしいことでした。召使いのあるものは何年もわれわれのところで働いてきており、上品で忠実な人たちであります。W氏と私の希望は、もし秩序が回復されたなら、できれば元の学校の校舎でほそぼそと何かをはじめようということです。しかし、われわれの同僚のうち数人は去ったし、現在の南京の経済状態からして新しい集団をつくり出すのは難しいことです。W氏は住宅委員の助手としてすぐれた仕事をしましたし、C氏も収容所の管理人の一人としてすぐれた仕事をしたのですが、われわれの召使いたちもあれこれと手助けをしてくれていたのであります。
今日の午後、私が日本大使館を訪れた時、大使館員たちは新年の祝� ��について約六〇人の中国人(多くがわれわれの収容所の幹事)に指示を与えるのに忙殺されていました。旧来の五色旗が国民党の青天白日旗にとって代わることになり、彼らは五色旗約一〇〇〇枚と日本の国旗約一〇〇〇枚を、新年の祝賀用につくるように命じられました。一〇〇〇人以上を収容している収容所は代表を二〇人出すことになり、小さい収容所は代表一〇人を出すことになりました。元旦の午後一時に五色旗が鼓楼に掲揚されるとともに、(プログラムによれば)〝適当な″演説と〝音楽″がおこなわれる予定です。もちろんこの旗を振って新体制を歓迎する幸せな人々がニュース映画に撮影されるのです。ところで、市内の焼き討ちはつづき、十二歳と十三歳の少女の強姦と誘拐が三件発生したとの報告が入りました。スパー� ��ングは本部のすぐ近くの家から兵隊を追い出すのに忙しく、養蚕所(金陵大学の一部でアメリカ人資産)では、兵隊たちが人狩りなどをする間、そのまわりに歩哨線をはっていました。
十二月三十一日、金曜日。比較的平穏な一日。夜間に暴行事件の報告がなかったのははじめてのことです。日本側は新年の準備でいそがしがっています。二日間休日となることが発表されました。われわれはそれが心配です。というのは、酔っぱらった兵隊がさらに多数出るということだからです。避難民は屋外に泊まらないようにと注意をうけました。夕食後にラーべはわれわれ一家を彼の家に招いて、クリスマス・ツリーに灯をともしてくれました。われわれ一人一人が安全区の徽章が入った年賀状をもらったのです。それには南京居留外国人の� �二人の署名が入っていました。彼はまた南アフリカの体験談をしてもてなしてくれました。部屋の壁には狩のすばらしい獲物のいくつかがかかっていました。大晦日です。家や愛する人びとに対する思いがどっと押しよせてきます。〝家郷″からの一通の手紙のためなら何を惜しみましょう。われわれは今しばらく辛抱しなければならないことは明らかです。というのは、日本大使館の話では、当地で郵便が回復するにはまだ何週もかかるとのことです。また、彼らは、少なくとも一カ月しなければわれわれのうちの誰かがこの町を出て上海を訪ねることはできないといっています。われわれは実際ここに監禁されているようなものです!
この物語をこれ以上続けて、その後に犯された暴行の数々を語っても、おそらく何の役にも立� �ないことでしょう。すでに一月十一日となって、事態は非常に改善されているとはいえ、暴行のなかった日は一日としてありませんでしたし、また暴行のうちのあるものはきわめて忌わしいものでありました。アメリカ大使館の三人の代表が六日に到着し、九日には英国大使館とドイツ大使館の三人の代表も到着しましたので、事態がさらに改善されるという保証をわずかながら感じています。しかし、つい昨夜、私が自動車で通ったところ、放火されたばかりのところが四カ所もあり、また兵隊たちが一軒の商店に入って五つ目の放火をはじめるところを見ました。十二月十九日以来、日本兵によって放火がおこなわれなかった日は一日もありませんでした。ところで、クレーガーは先日、東門からどうにか脱出したのですが、彼が二〇 マイルばかり行く間というもの全村が焼き払われ、中国人も家畜も生きているものは何一つ見られなかったそうです。
われわれはとうとうラジオで外界と接することができるようになりました。これは大変喜ばしいことです。というのは、先週の日曜日に私は電気を家に接続し今ではこれが使えるからです。委員会の本部には二、三日早く電気がきていました。それでも日本軍だけに電気がつくということになっているので、このことを吹聴することはしません。それからわれわれは上海の日本語新聞を二、三部と東京日日を二部読みました。これらの新聞によれば、十二月二十八日以来、商店が速やかに開店しつつあり、業務は平常に戻りつつあり、日本軍はわれわれと協力して哀れな難民に食物を与えており、南京から〝中国人″ 匪賊が一掃され、今や平和と秩序が支配しているというのです。もし事態がこれほどにまで悲劇的なものでなければと、苦笑を押えることができないところです。
私は以上の説明を何ら復讐の気持をもって書いてきたわけではありません。戦争は残虐なものであり、征服のための戦争はことに残虐なものであります。このなかで私が経験したこと、また一九三二年の上海の戦争でも経験したことからみると、キリスト教的理想主義をまったくもたない日本軍は、今日非道な侵略軍となっており、東洋ばかりでなく、他日は西洋をも脅かすことになろうということがうかがわれ、また世界はこの現実の真相を知るべきであると思われるのであります。この状況にどのように対処すべきかについては、私は私よりも賢明な人のびと考慮にま かせるべきでしょう。
この物語の中にももちろん明るい一面があります。それは、中国人の友人、および外国人の友人たちが一様に示したすばらしい奉仕の精神であり、また共通の大義のなかでわれわれが感じた親密な友情であります。われわれがしようとしたことにたいして難民たちが感謝を表明した時に、幾度となくわれわれは心あたたまる思いをしました。彼らの苦しみに比べれば、われわれ自身の損失や不便はとるに足らないものに思われます。そして、委員会の三人のドイツ人の友人たちはわれわれの尊敬と愛情をかちとりました。彼らは強力な砦であります。彼らがいなければどうして切りぬけてきたか私にはわかりません。
将来はどうなるでしょうか?ごく近い将来はけっして明るいものではな� �が、中国人は多くの長所に加えて、苦難に耐える卓越した能力をもっております。最後には正義が勝つに違いありません。とにかく、私は彼らと運命をともにしたことをつねに嬉しく思うでありましょう。」
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