第2章
第2章.主要政策
A.生活の質向上
ジュリアーニ市長は、より安全で清潔そして繁栄する都市づくりを目的として、常に生活の質を向上させるための手順や方法を明確にしてきた。この中には、犯罪減少や公共治安の向上、さらにタクシーの取締強化や過剰な騒音の抑制、及びコミュニティーの関係改善などが含まれる。市長は、自分の生活の質向上に向けた施策によって住民がニューヨーク市がより良くなり続けていることを信じられるようになったので、市の未来により明るい希望をもたらすことになったと主張してきた。
ジュリアーニ市長は、犯罪学者のジェームズQ.ウィルソン (James Q. Wilson)が主張する『壊れた窓(Broken Windows)』理論に同意し、市の取り締り戦略の中心に据えた。同理論は些細な事が大きな違いをもたらすことを主張する。ウィルソン博士の説明によると、「工場や事務所の窓が壊れていると、これを見た通行人が誰も気にしていないか、誰も管理していないのだと結論することになる。同時に、少数の人々がもっと窓ガラスを割るために石を投げ始め、やがて窓ガラスは全て割られることになる。こうなると今度は通行人が、単にそのビルが誰にも管理されていないのだと考えるだけでなく、ビルが面している通りも管理されていないのだと考える...そしてますます多くの市民がその通りをうろつき回る者たちに通りを明け渡してしまうことになる。小さな無秩序がより大きな無秩序につながり、それが多分犯罪にさえつなが� ��のである」1。言い換えれば、無秩序な雰囲気と相互に尊敬しあうことの欠如がより深刻な反社会的行動につながることになるという訳である。ジュリアーニ市長の重点事業は、この些細な事を注視し、市が法と秩序を維持する配慮をしているのだ、というメッセージを発すれば、市全体がより安全になるという考えに基づいていた。例えば市長は、警察が犯罪減少のために単に殺人だけでなく、音量の大きな音楽、無賃乗車、公共の場での飲酒、交通安全の取り締まりや爆竹・花火の規制等、相互の義務と尊敬という考え再度強調するのに役立つような軽犯罪を排除する業務にも一掃焦点をあてるよう命じた。1996年、通りでマリファナを吸ったり、万引き、無賃乗車、落書き等の犯罪で裁判所の召喚状を受けた人々のうち大体50%は裁判所に出頭しなかったので、ジュリアーニ市長は、これら出廷を怠った人々を再度逮捕することをニューヨーク市警本部(NYPD)の目標として据えた。
1 1998年2月24日のジュリアーニ市長演説『次の段階の生活の質:より市民的な都市づくり (The Next Phase of Quality of Life: Creating a More Civic City)』(巻末資料4を参照)より。
1998年初め、ジュリアーニ市長は生活の質向上に関する同市政の主要業績についての演説をした。同演説で下記の業績が主な例として掲げられた。
殺人件数は1990年代初めの2,000件から、1997年には800件弱に低下した。これはここ31年間で最も少ない。
過去4年間で全犯罪件数が44%低下した。 34万人を越える人々が福祉(生活保護)から離れ、公共扶助を受けている個人の総数が1968年以来初めて80万人を下回ることになった。
過去10年間の初頭には32万人を越える民間部門での雇用を喪失したが、今ではニューヨーク史上最大の雇用増加率を享受している。
最近、州の最高裁判所がポルノ・ショップの店数を大幅に制限するニューヨーク市の成人ゾーニング条例 (adult zoning ordinance)を全員一致で支持した。
ニューヨーク市警本部(NYPD) は、破壊行為に対する取り締まりを強化し、同逮捕者数は1994年7〜10月期の32人から1997年の同期には305人に増加し、1997年1年間では合計1,597人を逮捕した。
輸送局(Department of Transportation) は1994年7月以来2,150万平方フィート(199万7,350平方メートル) 分の落書きをきれいにした。仮釈放局 (Department of Probation) のコミュニティ・サービス課 (Community Service Unit)と公園局 (Parks Department)もまた落書き排除に協力した。この他NYPDの落書き部隊(Graffiti Unit) も、時々未成年者の落書きに対して保護者に責任を追及したり、監視カメラを戦略的に配置することを通して協力を行った。
ニューヨーク市は1996年9月に生活の質ホットライン(Quality of Life Hotline)を導入し、以来毎年何千件もの苦情を受けてきた。市長は1997年11月に過剰な騒音の原因である住民や企業の取り締まりを目的とした騒音公害対策法案 (noise pollution bill) に署名し、成立させた。
清掃局 (sanitation department)は、清潔度評価システムの実施以来、市の街路を以前よりも清潔にするようになった。
公共の安全
公共の安全を高めることは、ジュリアーニ市長の生活の質向上キャンペーンの主要な課題であった。1998年初頭に報道されたニューヨーク・タイムズ紙によると、1991年以来の凶悪な暴力犯罪の低下傾向は続き、ニューヨーク市の犯罪率が1997年には9.1%にまで低下した。1997年末のデータによると、殺人が22.1%低下して30年間最小の殺人件数を記録し、レイプが3.4%、強盗が10.1%、そして家宅侵入が11.5%低下した2。全米の主要都市で過去5年間犯罪減少傾向が続いている一方で、ニューヨーク市の凶悪犯罪の減少はほとんどの都市部よりも顕著でより長期的な持続傾向を見せていたため、ジュリアーニ市長の犯罪対策手腕が全米レベルで注目される結果となった。1997年ニューヨーク市内では767件の殺人があったが、1996年の984件より低下し、756件の殺人が記録された1967年以来最も少ない殺人件数だった。同市の殺人発生率は、2,245人が殺害された1990年にピークを記録していた。
ニューヨーク市の犯罪発生率と米国のその他大都市との比較では、FBI(Federal Bureau of Investigation: 連邦捜査局)が1997年に、1996年上半期における犯罪総数においてニューヨーク市が全米189大都市中で144位で、1995年の182都市中136位から改善されていることを報告した3。同報告書は、殺人と過失でない故殺、レイプ、強盗、加重暴行(婦女子に対する暴行等、普通の暴行より刑が加重されるタイプのもの)、家宅侵入、窃盗、及び自動車窃盗の7つの犯罪分類におけるデータを基盤にしている。1996年上半期の同データによると、アラスカ州アンカレッジやミズーリ州インデペンデンス (Independence)の人々の方がニューヨーク市より深刻な犯罪の犠牲者になる確率が高いようだった。ニューヨーク市の改善は全米レベルでの犯罪率を3%低下させることにも貢献した。ニューヨーク市を全米25大都市と比較すると、ニューヨーク市はレイプで23位、家宅侵入で22位で、窃盗では25都市中最小の発生率だった。ニューヨーク市は唯一強盗犯罪において8位と、犯罪率が高くなっていた。4
2 1998年1月3日付けニューヨーク・タイムズ紙『97年市の犯罪が9.1%低下 (Crime in City Down in '97 by 9.1%)」記事より。
3 1997年1月6日付けニューヨーク・タイムズ紙『FBIがニューヨークは大部分の都市より安全だと報告 (FBI Reports New York is Safer than Most Cities)』記事より。
4 同上。
この大幅な犯罪減少の理由の一つがジュリアーニ市長の警察取締戦略だというわけである。警察は主に無線連絡される犯罪通報への対応に何十年も注力してきたが、特に町の通りの麻薬販売の逮捕等の軽犯罪は逮捕するともっと腐敗が悪化するのではないかという恐れから逮捕をしないことを奨励されてきた。ジュリアーニ市長は就任後すぐにジュリアーニ市政最初の市警本部長だったウィリアム・ブラットン (William Bratton)と協力して、この考え方を逆転させた。また就任後2年以内にジュリアーニ市政は以前は別々に別れていた住宅警察部門と鉄道警察部門をニューヨーク市警本部内に統合し、二重に重なり重複していた機能を削減し、500人を越える警察官を直接巡回業務に配置した。
ジュリアーニ市長の警察戦略は、1991年に「安全な街路 (Safe Streets)」と名付けた犯罪撲滅計画を開始したデヴィッドN.ディンキンス (David N. Dinkins) 前市長の戦略とまるで対照的なものである。ディンキンス前市長の計画は、各地下鉄駅と街角に7,000人の制服の巡回警官を追加配置し、これら警察官の成績評価を彼らが組織するコミュニティーとの会合数と地域問題を記録する「巡回帳(beat books)」をいかにきちんと記録したかに基づいて査定した。ニューヨーク市民犯罪委員会 (Citizens Crime Commission of New York City) の会長は、「ブラットン市警本部長が就任し、制服警察が住民と協力すれば何でもできるという概念を修正した。同氏は標的とする犯罪を特定する管理制度を導入し、地域警察の理論に対抗することになる特別部隊を幅広く利用した」5。
ジュリアーニ市長の積極的な犯罪撲滅戦略の重要な基盤は、集中的な犯罪分析活動と犯罪データの更新、及びコンピュータのマッピング機能を基本犯罪対策ツールとして利用する、「コンプスタット(Compstat)」と呼ばれる新しい警察管理体制にあった。コンプスタットの導入により、ニューヨーク市警本部は犯罪に対応した受け身的な組織から犯罪行為を探知する積極的な活動を行う組織に変革した。コンプスタット以前はニューヨーク市警本部の76%の警察署長は、市警本部の上層部から孤立していたが、コンプスタットの導入により警察分署の署長が市警本部長、警察本部の各部長(chief of department)、警部(chief of detectives)、及びその他管理指導者達と2週間おきに会合し、地域的な犯罪パターンを明確にし、戦略を選考し、資源を配分するようになった。署長達には報告責任が課され、5週間毎に彼らの上司のパネルの前で報告することになっている。ニューヨーク市警本部の成功を、すでに発生した犯罪に対する警察官の対応である逮捕件数で測定する代わりに、現在市警本部は犯罪の予防及び抑止の効果を示す犯罪データを測定している6。
貧しい私は、どうすればcompterを得るのですか
5 1996年9月1日付けニューヨーク・タイムズ紙『ニューヨーク市からクリントン大統領への贈物:米国犯罪率の低下 (New York City's Gift to Clinton: A Lower National Crime Rate)』全国版記事より。
6 1997年ジュリアーニ市長の下院行政改革委員会 (House Committee on Government Report)に対する演説より。
ニューヨーク市警本部の特殊部門である逃亡者担当部 (Fugitive Division) はブラットン元市警本部長が発案した特別部隊の一つの例である。1996年ジュリアーニ市長は、通常保釈中に失踪するか裁判所への出頭命令を無視した後に犯罪を犯している逃亡者を逮捕するこの部を始動させた。(85,000件を越す)未逮捕の重罪逮捕状データを統一した指名手配者のマスター・コンピュータ・ファイルを使用して、市警本部は指名手配者の追跡活動を統一した。市長はそのようなシステムを構築する計画が何年も進められていたこと、そして最近の連邦補助金を利用してこの実行が可能になったことを知っていた。違反者が連邦、州、又は市町村当局から指名手配されているかどうかを迅速にチェックするためにパトロールカー全車にコンピュータ機器が装備された。巡回警察官達には、路上封鎖で止められた人や警察官が犯罪歴に疑いを持った人々をその場でチェックするために無線携帯用コンピュータと携帯電話が与えられた。また、新しい警察のホームページには匿名の通報者を奨励するための指名手配者の写� �が掲載されている。ハワード・セイファー (Howard Safir) 市警本部長はニューヨーク市外に逃亡した指名手
配者を追跡するために連邦保安官とFBIがニューヨーク市警に協力する了解を得た7。
専門家達は次のようなことを議論していた。新しい市警本部の戦略がどのくらい犯罪低下に貢献したのか? 長い刑期はクラック・コカイン取引の低下や常習犯を街路から遠ざけるのか? 異様に犯罪件数の多かった高校及び大学年齢層の男子犯罪者の数が減少傾向にあるという事実は何なのか? そして、現在のティーンエージャーが犯罪行為に用心深いのは1980年代から90年代初めにかけての流血惨事をあまりに目撃してきた結果である、等の要因にどのくらい帰するものなのか? しかしその一方で、この犯罪低下傾向が、長期的な持続力を持つかもしれないことが一般的に合意されている8。
7 1996年10月25日付けニューヨーク・タイムズ紙『ジュリアーニ市長、指名手配者逮捕のための新活動を計画 (Giuliani Plans a New Effort for Arresting of Fugitives)』記事より。
8 前掲1998年1月3日付けニューヨーク・タイムズ紙記事より。
ニューヨーク市警本部がますます攻撃的になっていることに対する批判は、特に少数民族の居住地域で目立ってきている。警察のデータによると、黒人及びヒスパニック系地域の住民の方が白人系住民よりもはるかに警察官に危害を与えられる場合が多い。逮捕後ブルックリン署の留置所内で複数の警察官から拷問されたと言われているアブナー・ルイーマ(Abner Louima)の事件から、こうした憂慮が高まった。同事件は、市当局が警察官達にもっと攻撃的になるよう命じ、そして市長は暴力的な警察官の監視機関の予算を削減しているという、市民権運動家達の従前からの憂慮を浮び上がらせることになった。ルイーマ事件が一般に報道された後に、こうした懸念に対応して、ジュリアーニ市長は市民苦情審査委員会 (Civilian Complaint Review Board) の予算を増額し、警察官の暴力的行為を阻止するための措置を勧告する特別委員会を任命した9。
1998年1月の一般教書の中で、ジュリアーニ市長は犯罪の被害者の権利と犯罪者の権利の間のよりバランスのとれた措置を取ることによってのみ、引き続き犯罪減少の成功を維持することが可能になると述べた。次に、仮釈放、麻薬、ニューヨーク市警本部の規模拡大、家庭内暴力、及び警察と地域社会(コミュニティ)の関係の特別政策措置について言及する。
仮釈放
ニューヨークでは仮釈放と早期服役出所日のために、警察官が常習犯を何度も繰り返し逮捕している。仮釈放を許可された人々があまりに多くの犯罪を犯しているので、もしこれら人々が刑期を満了していたら、ニューヨーク市で発生する大きな犯罪事件が12,000件近く少なくなるだろうと言われるほどである。市長は、州に仮釈放を廃止し、服役中の善行と管理された再入所に対してわずかな刑期削減を行う他は全囚人の刑期満了を保証するよう呼びかけた。また市長は、暴力・麻薬犯罪で有罪になった未成年の常習犯が何度か犯罪を犯した後にその者がまるで危険でないかのように記録を封印し続けるのは理にかなっていないと議論し、州がこれら若者の記録の一般公開を可能にする法律を成立させることを望んでいる10。
9 1997年10月28日付けニューヨーク・タイムズ紙『市長、より安全な都市に対する評価を得るが、広範囲にわたる傾向がこれに貢献』記事より。
10 98年1月14日発表ジュリアーニ市長の1998年一般教書より。
麻薬撲滅活動
1997年10月、ニューヨーク市は麻薬取締り策を発表した。それ以後、保護観察局(Probation Department) の住宅治療容認者数は2倍になった。ニューヨーク市はまた、学校のDARE (Drug Abuse Resistance Education:麻薬濫用抵抗教育) プログラムの拡大に努めた他、住宅団地地域のコミュニティ・センターにおけるDAREプログラムとGREAT(Gang Resistance, Education and Training:ギャング対抗教育訓練)プログラムを含むASPIREプログラムも設立した。これらプログラムはまもなく対象地域中心地の4,000人の子供達に提供されることになっている。ニューヨーク市は、放課後に学校をコミュニティ・センターとして利用するBEACON学校の数を41から69に増加した。これら活動に加えて、市長は麻薬ディーラーの市内への転入を阻止するために、現在市内4地域で実施中のニューヨーク市警本部の積極的な反麻薬モデル事業を9地域に拡大し、市内全区をカバーする計画を発表した。市長は州に麻薬中毒治療のための補助を行うよう要求しており、麻薬中毒者の更生成功を基礎とした評価しうる長期的プログラムを対象にした市の支出と合わせて使用したいと考えている11。
ニューヨーク市警本部の規模拡大
市長はニューヨーク市警本部に警察官を1,600人増員し、総数40,000人にする計画を発表した。同計画に批判的であったのは何人かの犯罪学者達と予算監視グループで、ニューヨーク市警の現在の人員配置が非効率的で、もっと多くの警察官を巡回に移動し、デスクワークは、より賃金の低い職員に回すことにより予算の節約が可能になると批判している。12
家庭内暴力 (Domestic Violence)
ニューヨーク市は、市警本部がすでに改善した家庭内暴力戦略を強化し、市長の家庭暴力撲滅委員会 (Commission to Combat Family Violence)を中心に同対策を進め、引き続き市内の公立・市立病院で家庭内暴力コーディネーターを利用できるようにする。また、住民の安全を保護するための更なる法的な力を付与するために、悪意をもって後を付け回すことを禁じる法律や終身保護命令及び他州の保護命令に対する十分な信頼と信用 (full faith and credit) を押し進めていく。13
警察と地域社会との関係
市長は、全警察官に通達し、全警察官が礼儀・プロ意識・尊敬 (Courtesy, Professionalism and Respect)プログラムを適切かつ忠実に守ることを確実なものとするための恒久的戦略を策定するために、警察・地域社会関係特別委員会 (Police/Community Relations Task Force)及びニューヨーク市警本部の勧告を待っているところだと発表した。また奉仕の対象である住民に対する市の全職員の丁寧な態度を向上させる計画も立てている。市長は1993〜97年にかけての犯罪 (44%)、殺人 (61%)、銃の犠牲者(61%)及び銃撃事件(62%)の低下に伴い、警察官1,000人当りの発砲した警察官の数(40%)も低下してきたことを述べた。この点において市長は、犯罪低下がより攻撃的で暴力的な警察の力によるものではないことを強調し、重大な違法行為に関与したことが判明した警察官は間違いなく懲戒され、ことにより解雇されたり起訴される結果をもたらすことを保証した。14
11 同上。
12 同上。
13 同上。
14 同上。
その他犯罪撲滅のための施策には、麻薬・暴力犯罪を阻止するために住宅団地 (housing development) 地域や麻薬が自由に取り引きされていた公園における監視カメラの利用拡大、ニューヨーク市内全土の地域社会に対する緊急医療サービス (Emergency Medical Service)所の拡大、保護監察官を近隣地域に分散し、「通りに面した (storefront)」事務所からより効果的に担当の保護観察対象者達の遵守を監視する「夜間照明作戦 (Operation Night Light)」の継続、全米レベルでの銃器取締法の支持の継続、及び成功を収めているニューヨーク市警のギャング(縄張りグループ)撲滅戦略の継続等が含まれている。
生活の質向上追加のための施策
ジュリアーニ市長が更なる対処を欲している生活の質向上のための課題には、(以上のほか)交通規制、タクシーの安全性、無謀な自転車草稿、騒音公害、ごみ捨て、攻撃的な物乞い(aggressive panhandling)、市の職員と住民間の礼儀、及び公立学校内の礼儀等がある。これらの施策の詳細は下記の通りである。
交通規制強化
ニューヨーク市の街路は比較的安全(大都市間の住民一人当りの比較において、ニューヨークは米国内で最も交通事故による死亡率が低い都市の一つである)であるものの、1997年には死亡件数が増加し、あまりにも多くの歩行者が交通事故で死亡している。新しい警察戦略を含む集中的な交通安全計画では危険な運転の阻止に的を絞っていくことになっている。市は、全運転者に市内道路の通行にはスピード制限があることを念を押していく。急速な効果を生むために、市内のあらゆる街路に制限速度を掲示することになっている。車が制限速度を越えると、警察官から道路の片側に停止するよう要求されることになるだろう。自動車を運転する者、自転車走行をする者、及び歩行者をより安全にするために、道路の走行速度を下げることを目標としたマンハッタン内の交通標識を再度検討しなければならない。ニューヨーク市は市内時速30マイル(約48.3km)のスピード制限で取り締まり、この速度制限を守らない者は容赦なくまる一日を潰すことになる。
もう一つの問題は、あまりに多くの車が交通信号を無視することである。赤信号違反監視プログラム (Red Light Violation Monitoring Program)を拡大することにより、市は取り締まりを強化し信号違反車に対して罰金を課すことができるようにする。また車、バス、及びトラックは、横断歩道で歩行者が横断している時には停車しなければならない。ジュリアーニ市長は、学校や高齢者施設の正面にスピードを下げさせるためのアスファルトのこぶ(speed bumps)等、より穏やかな交通に役立つような安全装置を設置したり、通行者の渋滞する地域でより厳格な速度取締りを実施することを宣言している。
市長は、お客を拾うために車線を横切って近道をするタクシーを最小限にするために、市中いたるところにタクシー乗り場を増やしたいと考えている。
市長は、新しい交通安全装置ができるだけ迅速に設置されるよう手段を講じたいと考えている。1997年7〜10月期に、承認から6か月以内に交通信号の85%が設置されたが、96会計年度からの増加率は横這い(0%)だった。
この他市長は、検問所や注意を増やすことにより「飲酒運転(Driving While Intoxicated)」の取締を強化したいと考え、これをニューヨーク市警本部の最優先課題の一つにしている。1997年、ニューヨーク全市内で逮捕された飲酒運転者は6,800人を越えていた。15
タクシー安全基準の引き上げ
市長はタクシー会社と運転手に安全第一であることを認識させるために、タクシー・リムジン委員会 (Taxi and Limousine Commission)の取り締まりを拡大したいと考えている。市長は、市内タクシー運転手の質を改善するために3つの活動目標を掲げている。
まず第一に、市は州議会にニューヨーク州が発行するリムジン等の大型高級セダン運転免許証(Chauffeur's license)を取得するための基準を厳しくするよう提議していく。現在一般の運転免許からリムジン運転免許への切り替えがあまりに容易で、単に更新を申し込み、料金を支払えばよいだけになっている。市長は、州がタクシーを運転して生計を立てる人を対象に、防衛的な運転技術を含むより難しい運転試験の追加を義務づけて欲しいと考えている。
第二に、ニューヨーク市はタクシー運転免許(古い言い方でハック免許 (hack license)とも言う)の発行基準を厳格にする努力をしていく。基準はすでに過去2〜3年にわたってある程度補強されてきた。過去には、タクシー運転手になる予定の者全員に対する市の筆記テストがタクシー学校を通じて管理され、不合格率は2〜3%だったが、現在このテストはもっと難しくなり、タクシー・リムジン委員会のスタッフが試験監督を行い、不合格率は平均27〜30%になっている。現在ニューヨーク市でタクシー運転手になるために志願者は大型高級セダン運転免許証を持ち、英語の実力テストに合格し、経歴検査のために指紋を取られ、タクシー学校を卒業し、そして最終試験に合格しなければならない。タクシー・リムジン委員会は、全過程を終了する前に志願者に仮免許又は見習免許を発行する制度を廃止したが、もっと取り締まるべきである。市は全運転手が恒久的な免許を取得する前に、試験期間を設け、これに合格することを義務づける新しい規制を設立する予定である。仮免を6か月間与えた後、運転手は恒久的なタクシー運転免許を受領する前に二度目の審査を受けなければならない。この試験期間に運転手が危険又はその他不適格であることが証明されると、市はタクシー運転免許を拒絶することになる。さらに市は、タクシー免許の全取得志願者に、公共輸送バス、スクールバス、及び地下鉄運転者と同様に、麻薬とアルコールのテストを受けることを義務づけるよう要求していくつもりでいる。
15 1998年2月24日付けニューヨーク・タイムズ紙、前掲記事より。
第三番目に、市はタクシー・リムジン委員会に現行の自動車保険レベルが事故で負傷する乗客にとって不公正かどうかを決定するために、タクシーの最低保険義務の引き上げを検討するよう依頼していく。関連する問題の一つは、一部保険しか持たないタクシー会社の所有者が時々評価するに価する資産を持たないペーパー・カンパニーの下に、運転手個人個人のメダリオン (medallion)毎に会社を設立し、乗客の負傷に対して支払いをしなくてすむように防御し、潜在的な債務を履行出来ないように見せかける場合があることである。(タクシー・メダリオンはその所有者にニューヨーク市内の通りで乗客を拾うためにタクシー会社を経営する権利を与える免許である)。ニューヨーク市は、同慣行をより明確にし、メダリオン志願者全てにその者たちが所有するタクシー会社を委員会に公開することを義務づけることにより、会社の所有者がこれ以上自分達の資産や債務をペーパー・カンパニーを盾にして隠すことが出来ないようにするつもりである。この情報の公開を怠ると、罰金の対象になると共にメダリオンが取り消されることになる可能性もある。市長は、各新規タクシー会社に実質的な賠償責� ��保険と無過失保険だけでなく、同保険を上回る債務をカバーするために保証証書(bond)を発行する義務を与えることを検討するよう委員会に依頼するつもりだと語った。同計画の2つの利点は、(1) 各新規タクシー会社が保証証書を発行しなければならなくなるので、これら会社がペーパー・カンパニーの設立を思い止まるようになること、そして(2) 設立される会社に十分な資産を保有するであろうということ、事故のコストをカバーする財務上の準備をさせることになること、である。16
16 同上。
無謀な自転車走行
1997年に、24人の自転車走行者がニューヨーク市街で事故死し、1997年と1996年にそれぞれ2度ずつ、自転車走行者が他人の死亡の直接原因となった。市長は、現行法で歩道で自転車に乗ることを完全に取り締まり、さらに歩道で自転車に乗る人により厳しい罰則を課する修正案を支持することを計画している。自転車が商売の配達に利用される場合は、同修正案により、自転車で走行する者と会社の所有者の両方が違反の責任対象になることが予定されている。市長は、自転車メッセンジャー・サービスの大手企業を免許制にし、免許を取得する前に従業員が負傷事故を起こす場合に備えて適切な保険を取得するように義務づけることも支持している。加えて、メッセンジャー・サービス等の商業自転車に会社名を明確に表示させ、自転車で走行する者が写真入りの身分証明書を携帯し、自転車配達の全てを記� ��することを企業に義務づけている現行の市議会条例(City Council laws)の規制取り締まりをニューヨーク市警本部が実施する予定になっている17。
騒音公害
1997年11月に署名・成立した新騒音規制条例は、違反者に課す罰金を引き上げると共に、基準に違反する騒音の取り締まりを強化するものである。1997年10月から1998年1月までに環境保護局 (Department of Environmental Protection: DEP) が送達した違反通知は前年同期比で22%以上に増加した。1997会計年度初頭以来、DEPとニューヨーク市警本部は合わせて3,900以上の騒音公害召喚状を発行してきた。これらの部局が協力して、騒音問題が慢性的になっているニューヨーク市全地域において集中的な騒音対策を実施している。住民は生活の質ホットライン又はDEPのホットラインに電話し苦情を申し立てることができる。
ニューヨーク市は車の警報音(アラーム)の不快さに対処するため、警報音は3分以内に自動的に止まなければならないという条例を施行するつもりである。この規制を遵守しない場合は、警察官が違反者に召喚状を送達し、車を牽引することになる。新しい施策では、警報装置を設置している車の所有者が自宅の電話番号を地元警察署に任意に登録し、その警察署の電話番号を書いたステッカーを車の窓ガラスに貼ることが奨励されている。この登録制度により、警報音が鳴り始めても、車を牽引する前に牽引会社か近所の住人が所有者に連絡できるようになる。
ナイトクラブの不快な騒音に対処する目的で編成された複数の政府部局による特別委員会、「オペレーション・ラスト・コール (Operation Last Call: 最終呼び出し作戦、の意)」は、住宅街に隣接するナイトクラブの過剰騒音への対処を支援していく18。
17 同上。
18 同上。
ゴミ捨て
1997年上半期にニューヨーク市内の全59清掃地区が、初めて清潔さの基準に適合していると評価された。同じ時期に、市内の街路は過去最高に清潔であるとの評価を得た。市長は、コミュニティの住民が清掃に参加し、自分達の地域における公共のスペースを誇れるようにしたい考えている19。
市の職員と全ニューヨーク住民間、及び学校内での丁寧な態度の回復
市長は市の職員達が市民及びプロの行動の手本を示すことができるように、ハワード・セーファー ・ニューヨーク市警本部長の「礼儀・プロ意識・尊敬 (Courtesy, Professionalism and Respect)」プログラムを一般市民と直接接触する市政部局内で拡大することを予定している。市長は、規律、誇り、及びお互いの尊敬を促進するために、学校の制服を支持すると共に、教師を対象にした服装規定の導入を支持している。また、授業内で丁寧な態度を教えるべきだとも考えている20。
19 同上。
20 同上。
B.民営化
ジュリアーニ市政は、市のサービス提供と、このサービスの運営に必要な資源のバランスを取ることを政策の優先課題の一つとして焦点をあててきた。市のサービスのほとんどに対してはあり余るほどの需要があるのだが、ジュリアーニ市政は実際には行政機関の統合と、効果の上がらないサービスの排除とコスト削減を同時に試みている。民営化は、効果の上がらない市が所有する資源を削減することを可能としつつ、資本を調達しサービス水準を向上させる方法として考えられている。ジュリアーニ市政は、内部の行政部局の民営化は提唱していない1が、市の公営テレビ・ラジオ放送局 (WNYC)と国連プラザ・ホテル (United Nations Plaza Hotel)を民営化し、ニューヨーク市立病院の仕組み (New York City Hospital System)の幾つかの病院を選んで民営化することを強力に進めている。ジュリアーニ市長は、ニューヨーク市の病院制度に慢性的な問題があると主張し、問題解決の試みとして市立病院を民営化することに焦点をあてている。政府より民間企業の方ががより効果的に運営する場合があるだろうことを同市政の方策としているわけである。
WNYCと国連プラザ・ホテルの売却に対してはそれほど大きな反対がなかったが、市の所有する病院の民営化については激しい議論が続いている。ジュリアーニ市長は、もともと市立病院制度は入院費を払う金銭的な余裕のない人々に医療を提供することを目的としていたが、今では「ほとんどの市民が健康保険を持ち」2、市立病院よりも私立病院を利用していると主張している。「市民の市立病院を救おう(Save Our Public Hospitals)」キャンペーンに率いられた反対派は、130万人のニューヨーク市民が健康保険を持っていないこと、そして全ての市民に対する健康医療の保証が危機に直面していることを議論している。
1 ジュリアーニ市長の1999年一般教書より。
2 同上。
3 1996年3月19日付けビレッジ・ボイス (Village Voice) 誌『破滅に向かう (Under the Knife)』より。
ジュリアーニ市長の民営化モデル事業
WNYCテレビ局
1997年、ニューヨーク市はWNYCテレビ局を2億700万ドルでITT社 (ITT Corp.)に売却した。価格は予想販売価格よりも3倍高かったもので、WNYC買収価格はUHF局の買収価格の中で最高値を記録するものだった。放送時間は共有されることになり、一部はダウ・ジョーンズ社 (Dow Jones)がCNBCと競争するために使用し、残りをITT社がマジソン・ン・スクエア・ガーデンからのイベント放送に使用している。売却以前は、WNYCは公共番組と外国語放送を行う公共テレビ放送局 (Public Broadcasting System)の番組を放映していた。2億700万ドルという巨額の追加歳入はジュリアーニ市政の短期的な歳出入の赤字軽減に役立てることができた。
WNYCラジオ局
1997年1月27日、ジュリアーニ市長は公共ラジオの放送免許をニューヨーク市からWNYC財団 (WNYC Foundation)に譲渡した。ラジオ局は同財団に2,000万ドルで売却され、市は年間330万ドルを受け取っている。同ラジオ局は非営利財団に売却されたので、ラジオ局の実際の市価がどのくらいになるのかはわからないが、2,000万ドルよりもかなり高額であることは間違いないと見られている。
国連プラザ・ホテル
1997年5月、ジュリアーニ市長は国連プラザ・ホテルを8,500万ドルで香港本社のリーガル・ホテル・インターナショナル (Regal Hotels International)に売却する計画を発表した。ニューヨーク市は同ホテルを21年間所有してきたが、ジュリアーニ市長は1993年頃からすでに同ホテル売却を公約していた。8,500万ドルという売値は、財産としてのこのホテルから得られる年間税収の二倍以上に当たる金額である。
WNYCと国連プラザ・ホテルを高額で売却したことは、民営化の成功例になっている。すなわち市は、これら組織が提供してきた有益なサービスを継続すると共に、利益を得た。市が所有する病院の民営化は、ジュリアーニ市政の第一期目のこの成功ほど単純ではないことが証明されている。
市立病院
ジュリアーニ市長は市立病院の民営化に関する政策を、「ニューヨーク市の病院の幾つかを民間企業の手に委ねることにより、我々は民間部門の資源と専門知識の利用が可能になり、全市民に対する医療の質を向上すると共に最終的にニューヨーク市の医療の質を引き上げることができる」(1996年6月30日付け市長のメッセージ)と述べている。ニューヨーク市の市立病院は保健・病院公社(Health and Hospital Corporation: HHC) が経営し、11の病院と5つの長期介護センター、及び6つの在宅介護機関から成る。更にHHCは33,349人の常勤職員を雇用している(1995年の38,503人から低下)。
州の法律では、取締役会 (Board of Directors)がHHCを管理し、取締役会は16人のメンバー中11人の任命権を持つ市長により運営されている。このためHHCは市の政策が変更する度に頻繁に管理・方針を根底から覆されてきた。ジュリアーニ市長の第一期目には、市長の諮問委員会(Mayoral Advisory Panel)がHHC解体を勧告したほどだった。
ジュリアーニ市長がコニー・アイランド病院 (Coney Island Hospital)、エルムハースト病院センター(Elmhurst Hospital Center)及びクィーンズ病院 (Queens Hospital)の3つの市立病院を民営化する意図を発表した瞬間から、市民だけでなく市の指導層からも同計画に対する深刻な懸念が表明された。市立病院勤務者のほとんどを代表して第37区評議会 (District Council 37)は民営化に強く反対した。
DC37は、民営の病院が市立病院を買収すると、私立病院の勤務者を代表する地域1199(Local 1199) 組合の組合員を従業員に使用することになることを恐れている。またこの計画は、地域の活動家グループからビジネス環境改善地区 (BID) に至る団体の連合組織からも異議を申し立てられたし、今では「皆の市立病院を救おう (The Campaign to Save Our Public Hospitals)」という名前の、民営化に反対する市民を代表する公的な組織が存在しているほどである。同連合は何十回ものデモを組織し、市議会のメンバーやその他政治家達に圧力を与え、病院の将来に関するあらゆる公聴会に出席し、活動を市全体に広げるための教育的な努力に出資する等の活動を行ってきた。
コニー・アイランド病院はグレーヴセンド (Gravesend)に所在し、コニー・アイランド、ブライトン・ビーチ (Brighton Beach)、シープシェッド・ベイ (Sheepshead Bay)、及びベンソンハースト (Bensonhurst)の住民が利用している。これら地域の人口は約75万人で、主に労働階級と低所得市民から構成される。コニー・アイランド病院は最近、心臓病関係のリハビリ部門、女性専門保健センター、及び1995年に520万ドルの新・外傷治療センター (Trauma Center)等の重要な付属施設を開設している。同病院はしばしば非効率的だと言われているが、中には市立病院の中で最高だと考える人もいる他、公立病院の中では珍しく収益率が高かった4。ジュリアーニ市長はコニー・アイランド病院を民営化ターゲットの最初の病院とした。
ジュリアーニ市長は民営化計画を押し進めることにより、市立病院を公営病院のまま維持することを望む地域住民の抗議と反対を無視したと非難されてきた。憲法権利センター(Center for Constitutional Right)の弁護士であるバーバラ・オルシャンスキー(Barbara Olshansky)は「市は地域住民が本心から意見を表明するための機会を提供していない」5とコメントした。その後反対派は地域の審議会や市議会に援助を求めていった。
4 1996年3月19日付けビレッジ・ボイス紙『破滅に向かう (Under the Knife)』より。
5 同上。
1996年3月、市議会(City Council)は、ピーター・ヴァロン(Peter Vallone)と保健委員会議長のイーノック・ウィリアムズ(Enoch Williams)の指導で、市長の計画を阻止するための訴訟に踏み切った。この訴訟は全市立病院の民営化に関する最終決定は市議会が決定すべきだと主張した。
1996年6月、ジュリアーニ市長はペンシルバニア州ウェイン(Wayne)本社のプライマリー・ヘルス・システム社(Primary Health System, Inc.)がコニー・アイランド病院を49年間リースする契約に署名したと発表した。同声明書は、全住民に対する医療を保証し、地域社会との関係を維持し、住民に医療を提供する責任があることを詳細に説明している。11月8日にHHCの理事会は、このリース契約条項の承認を票決した。
1996年11月12日アラン・ヒーヴェシ(alan Hevesi)ニューヨーク市監査官(New York City Comptroller)は、HHCがコニー・アイランド病院の民営化票決の前に提案された契約書を徹底して吟味しなかったことに対する失望の念を表明した。ヒーヴェシ氏はジュリアーニ市政は民営化が医療を向上させ予算を節約するかどうかについて何一つ立証しなかったと主張した。
1997年9月、ニューヨーク州高等裁判所は、ニューヨークは州法の改正なしには公立病院を民営化することができないと判決した。州最高裁判所上訴部(Appellate Division)の公聴会(パネル)もまた、州議会の承認を求めずにコニー・アイランド病院を営利会社にリースしようとしたHHCの試みは「その制定法上の権限を超えた」ものだと判決した。1月に下級裁判所が病院のリースを阻止する判決をしたことに続いて、ニューヨーク州の高等裁判所が同判決を支持し、さらにパネルからも同判決を得たことからジュリアーニ市政は二度の衝撃を受けた。
市立病院の民営化に関する反対とニューヨーク市が法律上の係争に巻き込まれたにも関わらず、ジュリアーニ市政は戦いを諦めなかった。市長は1999年1月の一般教書演説で、「コニー・アイランド病院の民営化の道を探ると共にエルムハースト病院の民営化を開始することにより、公立病院制度の民営化をさらに追求していく」つもりだと発表した。
C.市役所(City Hall)の組織改革
ジュリアーニ市政は市政府のある側面での民営化に力を入れると同時に、組織改革に着手している。重要な部局を統合して、政策実施過程とコストの合理化を図ることがジュリアーニ市長の目標である。この目標の一つの側面が民営化であり、他の側面が組織改革である。組織改革の成功によってもたらされる成果として、市政府の規模縮小と公共部門の効率化をもたらすことを最終的には狙っている。
1994年2月2日、ジュリアーニ市長は、市の職員を最高18,000人レイオフし、予算を削減し、1994〜1995年に3,500万ドルの減税を実施する4年計画を発表した。市長の当初の計画は35,000人をレイオフする予定だった。しかし、自治体援助公社 (Municipal Assistance Corporation) との1回限りの取引により調達した約2億ドルを早期退職金に利用してレイオフ数を減少させた。ジュリアーニ市長の長期的目標は、ニューヨーク市の労働人口に占める自治体勤務者の割合を17%から12%に低下させることである。
全市管理サービス局(Department of Citywide Administrative Services: DCAS)はジュリアーニ市長と協力して、その他の部局の職員削減を支援する部局である。ジュリアーニ市長の第一期、この局は3つの行政部局が入っている建物の統合、輸送用自動車の民営化、不動産の統合等、様々な成功を収めた。DCASはニューヨーク市政府の職員のうち85%が公務員試験を通じて採用されていると見積っている。「毎年の試験予定を見ると、ニューヨーク市がより小規模の職員数にしようと努力しているかがわかる。
一般公募の採用試験予定には、専門職又は同職の人材ニーズが市政府の既存職員内の"配置転換"で満たされなかったものであるという職種の説明が含まれている。1」第一期には業務の合理化、職階の再分類及び重複する職種の排除等様々な成功が達成された。これらの成功は第二期ではまだ見られていない。
1 www.ci.nyc.ny.us/html/dcas/html
任意早期退職プログラム
ジュリアーニ市長が1994年に就任した時、1995会計年度に23億ドルの予算赤字が生じることが見積られていた。市長は就任後すぐに市議会や市の幹部と会見し、市の職員を7,600人レイオフする計画をまとめた。目標は、市政府の規模を恒久的に縮小し、予算赤字を削減することだった。
1994年4月1日、ジュリアーニ市長は15か月以内に総数15,000人の雇用削減を誓った改革計画の主な概要を発表した。ジュリアーニ市長の長期的な目標は、約3億4,200万の給与を節約するために(早期退職・配置転換等を通じて)市の職員削減を追求することだった。節約のためのレイオフと引き換えに、自治体援助公社が市長の早期退職計画の資金を供与するために2億ドルの資金調達を行い、1994年6月までに7,600人、そして95年6月までに総数15,000人の人員削減をするために8万人の全職員に対して早期退職特典を提示した。
市の職員削減により重要な職種が欠員のままになり、公共機関にマイナスの影響を与えることになると多くの人々が憂慮した。1994年8月1日、ジュリアーニ市長は予算削減のショックを軽減するための職員の配置転換は、正反対の報道にもかかわらず予定通りに進んでいることを発表した。市と自治体職員組合間の雇用契約に従って、任意早期退職プログラムにより欠員状態になった重要な職種を補充するために(外から雇用するのではなく)市の職員を転職させることになっていた。2
1994年10月までにジュリアーニ市長は、さらに7,600人の雇用を削減するというはるかに野心的な計画を発表した。最初の任意早期退職パッケージを受け入れたのは7,600人の目標に満たない6,139人の職員だったが、組合の雇用契約を継続したこと自体が一つの実績となり、ダウンサイジングは伝統的に共和党市長の敵である自治体労働組合からも引き続き支持されることになった。
1996年市議会のバーマン(Berman)議員が、市長の要求に応じて市の職員の一部を対象にした退職奨励計画を定める条例案を提議した。この計画の対象となる職員は年金の対象となる年毎に対して12分の1年分の上乗せ退職手当てを受けとった。この早期退職パッケージは提示初年度に市の職員数を15,000人削減することに貢献した。市の職員組合は市政府内でレイオフを実施しないことを保証することを交渉で引き出すことに関心を持っていたが、引き続きジュリアーニ市長に協力した。
2 1994年8月2日付けニューヨーク・タイムズ紙現在の出来特集: ニューヨーク (Current Events Edition: New York)より。
市のサービス
ダウンサイジングに対する批判はあったが、ジュリアーニ市長の第一期目は市政府を縮小することに成功し、「より少ない人員でより多くを提供する(deliver more with less)」ことができた。「就任から1年半のうちに、ジュリアーニ市政は以前は別の部局だった住宅警察局 (Housing Police Department)と鉄道警察局(Transit Police Department)をニューヨーク市警本部に合併することに成功した。この合併により二重に重複していた管理機能を削減し、500人を越える警察官を直接巡回業務に配置することが可能になった。3」また、審理・公聴会管理室(Office of Administrative Trial and Hearings)は6%削減したスタッフが以前より24%多くの事件を解決した他、更生局 (Department of Corrections)は人員を3%削減し、23%増加した囚人を受け入れた。
第二期市政の最重要点
ジュリアーニ市長の二期目に、市の職員削減が福祉改革におけるモデル事業と関連していたことを認識することは重要なことである。市長に対する批判者は、市の職員が縮小したのではなく、勤労福祉制度が拡大したのだと議論してきた。勤労福祉制度の参加者は市の職員の重要な部分を構成するようになり、病院や福祉事務所で勤務した。1996年に160万人だった福祉受給者が1998年にはたった79万7,000人になり、勤労福祉制度が20万人に仕事を提供したことは事実である。しかしながら、34,000人の勤労福祉制度による雇用者達を単純に市の職員と取り替えたのではないかという疑問が提起されてきた。
勤労福祉制度の労働者達は、非常に低賃金で労働をニューヨーク市に提供し、おまけに市の機能のかなりの部分の労働を担うことができる。組合指導者の中には、公共機関の雇用者は常勤職員を勤労福祉制度参加者と取り替えてはならないとする州法にジュリアーニ市政の勤労福祉制度が違反していると主張する者もいる。(ペンキ塗り職人と大工の)2つの組合は、「一般的な賃金が時給20ドルの仕事をどうして福祉受給者が時給3ドルで行わなければならないのかわからない」と述べ、市を訴訟した5。
この最も顕著な例の一つは公園管理局(Parks Department)で、同局はレイオフと市長の限定されたプログラムのために「非管理職」とみなされる職員の数が1990年の2,786人から1998年には1,156人にまで減少した。現在勤労福祉制度の参加者6,000人が公園管理局で働いている6。
3
4 市長の経営報告書(Mayors Management Report)(巻末資料5の「職員の管理 (Managing the Workforce)」と「経済開発(Economic Development)」の章を参照)。
5 1998年4月13日付けニューヨーク・タイムズ紙『勤労福祉制度参加者の多くが市の職員に代わる(Many Participants in Workfare Take the Place of City Workers)』記事より。
6 同上。
ジュリアーニ市長は自分のプログラムは常勤職員と勤労福祉制度参加者を取り替えることを目的としたわけでも、実際にそうなってもいないことを確固として主張してきた。市長は「我々は職員から仕事を奪ったりしない。我々は勤労福祉制度を雇用拡大のために利用しようとしているのだ」7と主張した。
保健・病院公社 (Health and Hospitals Corporation: HHC)
1998年4月にジュリアーニ市政はニューヨーク市立病院で働く905人の職員にレイオフを通告した。組合指導層と民主党の政治家は、レイオフが職員及び病院を困窮させることになると主張するキャンペーンを実施し、中には市が保健医療における市の役割を放棄するための第一歩を踏み出そうとしていると主張する者もあった。市長の2人の保健最高顧問は「私立病院との競争激化から2億5,900万ドルの赤字予想にいたるまで、市立病院が様々な問題に直面しているこのときに患者数が減少したためにレイオフは行われることになった」8と証言した。市議会の議員は、予算削減のために提供する医療のレベルが低下し、その結果市立病院で治療する人が減少したのだという彼らの懸念を表明した。
組合は、単にレイオフの対象人数を知っていただけでなく、数週間の間に誰がレイオフされることになるかも知っていた。レイオフ対象になった職員達は早期退職特典の資格に該当しない者達だった。272人と最もレイオフ人数が多かったのがハーレム病院 (Harlem Hospital)で、緊急の抗議を計画的に実施した。結局全部で199人の看護婦助手、71人の食堂補助員、67人の病院業務助手、61人の清掃担当者、及び41人の医師と歯科医師がレイオフされた9。
7 同上。
8 1998年4月21日付けニューヨーク・タイムズ紙『市がプロテスト中の病院の905人をレイオフ (City Lays off 905 at Hospitals Amid Protest)』記事より。
9 同上。
12万人以上の市の職員を代表する第37地区評議会 (District Council 37) はその後すぐにジュリアーニ市長の病院職員レイオフ計画は、職員の代わりに1,000人の勤労福祉制度労働者を利用しているので違法だと主張して訴訟を起こした。市長はすぐに訴状の内容の全てを否定したが、その翌週にはニューヨークの市立病院から全ての勤労福祉参加者を退職させ、これで勤労福祉参加者がレイオフされた職員に取って代わっているのではないことが証明されたと主張した。市長はまた、勤労福祉参加者が間違いなく市の他の部局に再配置されるようにした。市の弁護士達は当時勤労福祉従業員を除去すれば訴訟は終わりだと反論したが、組合の幹部達は訴訟がレイオフと戦う唯一の方法だったので、訴訟を取り下げることを拒絶した。
2週間後にジュリアーニ側は労働組合と会談しレイオフの延期又は回避を試みたが、友好的に始まった会議もすぐに悪化し、5月19日に市長は市立病院職員の迅速なレイオフを命令した。このレイオフの対象職員を代表する地域420(Local 420) 組合の議長であるバトラー (Butler) 氏は法廷でレイオフと闘う意図を発表した。
ホームレス・サービス局 (Department of Homeless Services)
ジュリアーニ市長は、1998年5月にホームレス・サービス局の職員を最高1,000人削減する計画を発表した時に多くの同様の反対に直面した。ジュリアーニ側近は職員が他の市の仕事に配置され、誰も職場から追い出されるようなことはないと述べたが、組合は「計画を嘲笑し、同局が解体されてホームレスのニーズに応える上で極めて重要な仕事が喪失されることになると主張した。10」ここでも再び市長がレイオフを「仕事を請負いに出す」ために利用しているという問題が浮上し、組合は同局の職員を守るために闘うことになっている。
10 1998年5月27日付けニューヨーク・タイムズ紙『市はホームレス局の人員削減におけるレイオフ回避を計画 (City Plans to Avoid Layoffs in Cuts at Homeless Agency)』記事より。
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